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本当の自由とは?『中動態の世界』に学ぶ新たな時代の哲学
「受動態」という言葉を聞くと、多くの人は英文法の授業を思い出すのではないでしょうか。たとえば、John broke the window.(ジョンが窓を壊しました)という能動態の文は、「誰が何をしたか」を示しています。これに対して、The window was broken by John.(窓はジョンによって壊されました)という受動態の文は、動作の対象である「窓」を主語に置き、動作の主体である「John」を文末に置くことで、文の焦点を変えています。このような能動態と受動態の区別は、ヨーロッパの多くの言語に共通する基本的な文法の仕組みです。
受動態は、動作の主体と客体を入れ替え、文の焦点を変える仕組みです。ですが、もし主体と客体が同一の場合はどうなるのでしょうか。たとえば、英語では、-selfをつけた再帰代名詞(myself、yourselfなど)を使い、自分自身への行為を示します。He washed himself.(彼は自分自身を洗いました)のような文がその例です。
このような文は、文法上は能動態に分類されますが、実際には能動と受動の中間にあるような状況を示しています。実は、ある種の言語には、こうした「主体が自分自身に作用する行為」を表す独立した態が存在しています。それが「中動態」と呼ばれるものです。
著者の國分功一郎氏は哲学者であり、現在は東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授を務めています。スピノザ研究をはじめとする専門的な哲学研究のかたわら、テレビ出演や一般向けの書籍の執筆など、多方面で活躍されている人物です。一般向けの著作が多数ありますが、代表的なものに『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)、『近代政治哲学:自然・主権・行政』(ちくま新書)、『スピノザ:読む人の肖像』(岩波新書)などがあります。
この対話の中で、國分氏は依存症者の語りに中動態の視点を見いだします。薬物をやめようとしている人が「やめようとしているのにやめられない」「やめたいと思うほどやめられなくなる」と語る場面。行為が能動的なのか受動的なのか、単純には区別できないこのような経験は、従来の枠組みだけでは捉えきれない複雑なものです。國分氏は中動態という概念を導入することで、こうした事態を理解しようとしているのです。
國分氏は、このような「非自発的同意」とも呼べる行為を理解するために、中動態の視点から考えます。この視点から見ると、恐喝に応じて金銭を渡す行為は、単なる「する」や「される」ではなく、主体が行為の中に巻き込まれている状態として捉えることができます。國分氏は中動態の概念を通じて、従来の能動/受動の枠組みでは捉えきれない行為のもつ性質を明らかにしようとしているのです。
スピノザの主著『エチカ』の第5部は「人間の自由について」と題されています。そして、スピノザによる自由の定義は、「自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である」というものです。スピノザにとって、自由は必然性と対立するものではありません。むしろ必然性を正しく認識し理解することでこそ、人は自由になれるのです。スピノザの哲学は、「ものごとをありのままに認識する」ことを通じて自由への道を切り開きます。そして、この思想は、國分氏のなかで「世界が中動態のもとに動いている事実」の認識と密接につながっているのです。
『中動態の世界』は、医学書院が発行する精神科医療従事者向けの専門誌『精神看護』に連載されていた記事を基にしています。このことからもわかるように、中動態の視点は、抽象的な理論にとどまらず、医療や福祉の現場での具体的な実践にも届くものです。日々の人間関係や、ケアの現場における問題を新たな角度から見つめ直すヒントとして、『中動態の世界』をぜひ手に取ってみてください。
受動態は、動作の主体と客体を入れ替え、文の焦点を変える仕組みです。ですが、もし主体と客体が同一の場合はどうなるのでしょうか。たとえば、英語では、-selfをつけた再帰代名詞(myself、yourselfなど)を使い、自分自身への行為を示します。He washed himself.(彼は自分自身を洗いました)のような文がその例です。
このような文は、文法上は能動態に分類されますが、実際には能動と受動の中間にあるような状況を示しています。実は、ある種の言語には、こうした「主体が自分自身に作用する行為」を表す独立した態が存在しています。それが「中動態」と呼ばれるものです。
研究室を飛び出し、多様なメディアで活躍する哲学者
今回ご紹介する『中動態の世界:意志と責任の考古学』(國分功一郎著、新潮文庫)は、この「中動態」という文法概念を自在に駆使しながら、人間の自由や意志について哲学的に考察していきます。本書は、中動態という現代語にはほとんど残っていない概念を、古代ギリシア語などの古典語から掘り起こし、新たな視点を与えた独創的な哲学書です。著者の國分功一郎氏は哲学者であり、現在は東京大学大学院総合文化研究科・教養学部教授を務めています。スピノザ研究をはじめとする専門的な哲学研究のかたわら、テレビ出演や一般向けの書籍の執筆など、多方面で活躍されている人物です。一般向けの著作が多数ありますが、代表的なものに『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)、『近代政治哲学:自然・主権・行政』(ちくま新書)、『スピノザ:読む人の肖像』(岩波新書)などがあります。
依存症者の語りと中動態―二項対立を超えて
國分氏は、本書のプロローグで、ある架空の対話を描いています。その内容は、依存症に苦しむ女性と支援者のあいだで交わされる会話を通して、自分の意志で行動するとはどういうことか、また責任を負うとはどういうことかを問い直すものです。アルコールや薬物への依存をやめたいと願いながらも、やめるための強い意志を持とうとすると、かえって失敗してしまうという逆説的な現実が描かれています。この対話の中で、國分氏は依存症者の語りに中動態の視点を見いだします。薬物をやめようとしている人が「やめようとしているのにやめられない」「やめたいと思うほどやめられなくなる」と語る場面。行為が能動的なのか受動的なのか、単純には区別できないこのような経験は、従来の枠組みだけでは捉えきれない複雑なものです。國分氏は中動態という概念を導入することで、こうした事態を理解しようとしているのです。
能動でも受動でもない行為のかたち
本書で紹介されている例を紹介しましょう。哲学者ハンナ・アレントが取り上げた「カツアゲ」の事例です。銃で脅された人物が自らの手でポケットからお金を取り出し、恐喝者に渡す行為は、表面的には自発的に見えるかもしれません。しかし、その行為は脅迫という外的圧力のもとで行われており、純粋な能動とも受動とも言い切れない性質を持っています。このような状況は、アレントの理解では「自発的」なものとされていますが、國分氏はその解釈に疑問を投げかけています。國分氏は、このような「非自発的同意」とも呼べる行為を理解するために、中動態の視点から考えます。この視点から見ると、恐喝に応じて金銭を渡す行為は、単なる「する」や「される」ではなく、主体が行為の中に巻き込まれている状態として捉えることができます。國分氏は中動態の概念を通じて、従来の能動/受動の枠組みでは捉えきれない行為のもつ性質を明らかにしようとしているのです。
自由意志を超えて―スピノザの哲学と中動態
本書の副題にもある「意志」の問題は、作品全体を通じて繰り返し問われています。意志の問題を考えるとき、國分氏が参照するのが自身の専門でもあるスピノザです。スピノザは、自由意志を否定した哲学者として知られていますが、國分氏は、自由意志を否定したからといって、スピノザは自由そのものを否定したわけではないと指摘します。むしろ、自由意志という概念に囚われている限り、人は本当の自由になれないというのです。スピノザの主著『エチカ』の第5部は「人間の自由について」と題されています。そして、スピノザによる自由の定義は、「自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である」というものです。スピノザにとって、自由は必然性と対立するものではありません。むしろ必然性を正しく認識し理解することでこそ、人は自由になれるのです。スピノザの哲学は、「ものごとをありのままに認識する」ことを通じて自由への道を切り開きます。そして、この思想は、國分氏のなかで「世界が中動態のもとに動いている事実」の認識と密接につながっているのです。
『中動態の世界』は、医学書院が発行する精神科医療従事者向けの専門誌『精神看護』に連載されていた記事を基にしています。このことからもわかるように、中動態の視点は、抽象的な理論にとどまらず、医療や福祉の現場での具体的な実践にも届くものです。日々の人間関係や、ケアの現場における問題を新たな角度から見つめ直すヒントとして、『中動態の世界』をぜひ手に取ってみてください。
<参考文献>
『中動態の世界:意志と責任の考古学』(國分功一郎著、新潮文庫)
https://www.shinchosha.co.jp/book/103542/
<参考サイト>
國分功一郎氏のX(旧Twitter)
https://x.com/lethal_notion
『中動態の世界:意志と責任の考古学』(國分功一郎著、新潮文庫)
https://www.shinchosha.co.jp/book/103542/
<参考サイト>
國分功一郎氏のX(旧Twitter)
https://x.com/lethal_notion
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