●南禅寺と水路閣から日本の近代を考える
皆さん、こんにちは。
皆さんの中には、京都の南禅寺を訪れた方も多いかと思います。特に、朝の早い南禅寺の境内は、まことに不思議な霊気が漂っていまして、独特な雰囲気を醸し出しています。
さて、南禅寺を正面に見たときに、有名な楼門(ろうもん)があります。これは歌舞伎の有名な『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』の中で、石川五右衛門が、「絶景かな絶景かな…」と名科白を叫んだ場所としても知られていますが、その門の右手を見ますと、映画のロケなどでもよく目にする水路閣があります。
この水路閣と南禅寺の組み合わせというのは、まことに面白いものがあるのですが、さて、こうした日本の伝統的な社寺と西洋の影響を受けた建築物が、同じ境内に共存しているというのは、なぜなのでしょうか。このあたりに、日本の近代というものを考える、また別の手がかりがあるかと思います。
●元勤皇の志士・北垣国道率いる水路閣建設という大事業
この南禅寺を流れている水路閣は、もともとは琵琶湖疏水の水道橋、すなわち、琵琶湖から京都まで引いた疏水の支線です。つまり、琵琶湖の水をいくつもの山をうがったトンネル、隧道を通して琵琶湖から水を持ってきたのですが、その支線が水路閣だったのです。
この水路閣の建設は、明治新政府の下で行われましたけれども、この大建築と大工事を現在風に言うならば、北海道新幹線や青函トンネル、東海道新幹線などの建設にも匹敵する、時代における最先端の事業でした。
この掘削をした人物が、北垣国道という京都知事でした。北垣は、もともと但馬国の出身でしたが、幕末に勤皇の志士として、「生野銀山の変」という生野銀山で公家を盛り立てて倒幕に動いたことでも知られています。
彼は、幕末から明治にかけまして、幕府を倒す戦争である戊辰の役で、特に越後の方の北越戦線にも転戦した人で知られていますが、明治になってからは、地方の知事として、さまざまな手腕と力量を発揮していきます。
●北垣・田辺コンビがつくり上げた誇るべき明治の遺産-琵琶湖疏水
中でも、彼は、京都知事になった時に、これは豊臣秀吉以来か、ひょっとしたらもっとそれ以前の人の夢であった「琵琶湖の水を京都に引こう」という壮大な計画を実現しようとします。
京都は、明治に入って、東京に奠都(てん...