●「内戦」の定義が当てはまらないシリア
皆さん、こんにちは。今回は、ロシアが空爆によって本格的に内政に干渉を始めたシリアについて、再び考えてみたいと思います。
シリアで何が起きているのかということを定義するのは、前回、前々回でも触れましたが、なかなか簡単ではありません。それは、アサド大統領という独裁政治体制に対するアラブの春によって生じた人民たちの反抗、蜂起として始まったわけです。そして、そういう反アサド勢力の動きが内戦へと変形した、変わってしまったというのが通説です。しかし、考えてみますと、内戦という言葉はなかなか厄介な言葉であり、シリアの状況を完全に補足する、完全に定義するものではないことは、最近中東問題の現地の識者なども語っていることです。
内戦というのは私の考えでは、国民の積極的な分子、国民の中が少なくとも二つ以上の陣営に分かれて戦うことです。しかし、シリアにおいてはこういう定義は当てはまりません。
●均衡した二勢力のシリア内戦と見える理由
日本人であれば内戦といいますと、古代史においては、天智天皇が亡くなってその子どもで後継者の大友皇子と、天智天皇の弟の大海人皇子(後の天武天皇)が、皇位継承をめぐって争った壬申の乱がすぐに思い浮かびます。あるいは、南北朝という日本史未曽有の内戦です。北朝の持明院統と南朝の大覚寺統との間の諸勢力が、全国的な規模で内戦を繰り広げたことを思い浮かべます。非常に短時間ではありましたけれども、日本の近代の陣痛を経験した幕末、明治にかけての戊辰戦争も紛れもない内戦でありました。
しかし、こうした内戦的状況は、大きく分けてやはり二つの陣営がほぼ拮抗する勢力を持って対峙し合って戦うこと、これが内戦でありますが、現在のアサド体制と反アサド体制というこの内戦は、なかなかこの古典的な定義に当てはまらないのではないかと思います。確かにアサド体制は、アラウィー派というシーア派の一派、分派との間で支持基盤を持ち、キリスト教徒の共同体の間でも民衆的な基盤を持っています。しかし、この両勢力は、国土の80パーセント近くの住民を占めているスンナ派のアラブ人たちに対しては、著しく均衡を欠いた勢力であり、この二つの勢力間の争いが、いわば古典的な意味での内戦と言えるかどうかは、大変疑問なのです。
ここであたかも内戦であるかのように、均衡した勢力が存在していると見えるのは、アサド側に空軍勢力があるからです。この空軍兵力が圧倒的に優位なために、アサドの力が考える以上に大きく見られているわけです。しかし、実際にはアサド側は、民衆的基盤、市民的な支持基盤というものを相対的には持っていない、弱い勢力だということを見ておかなければなりません。
●シリアにみる外国からの積極的支援
そうすると、アサド政権はなぜ持ちこたえているのかというと、それは、内戦においては珍しい外国勢力の介入と、外国勢力による援助を受けているからです。つまり、それがロシアであり、イランであるということなのです。内戦は、古典的に言いますと、どちらかの側にも外国からの積極的な援助とか、あるいは、積極的な当事者が居ないことが特徴です。居たとしても、それはマージナルな、周辺的な存在に終始するというのが普通でありました。
ところが、シリアにおいては、控えめに見ましても、アサド側に味方する戦士のうち20パーセントは、イラン、あるいは、イランの影響下にあるレバノン、イラク、アフガニスタンにおけるヒズボラや、あるいはイランの革命防衛隊やそれからの志願者でありますから、かなりのパーセンテージの外国人が含まれているということです。これは、内戦的な定義から大きく外れることになります。反アサド陣営には、もはや言うまでもなく、イスラム国(IS)を例にとるまでもなく、そこには80カ国以上から来た多数のジハーディスト、多数のテロリストたちが参加しています。両陣営とも、外国からの財政的、あるいは兵站、ロジスティクス、あるいは宣伝、こうした点での支援を受けているわけです。
●シリア内戦と第三次世界大戦の可能性
もちろん歴史的に振り返ってみますと、なんらかの外国的な要因のない、つまり外国人の存在のない、その流入のない、あるいは影響のない内戦というのは、あり得ないかもしれません。例えば、歴史における、世界史における最初の内戦といえば、私たちの勉強した限りでは、古代ローマにおけるマリウスとスッラの間の争いで、これがそれぞれの陣営による戦争に発展しました。あるいは、その外国の支援者によって彼らも財政支援を受けたことは事実です。しかし、大規模なものではありません。1936年から1939年に至るスペイン内戦もありました。これは、フランコに指導されるファ...
(山内昌之・佐藤優著、徳間書店)