●諸君に代わってやってもらいたい
もし今から私が40年ほど若返ることができたら、こういう塾をしなくても政治そのものに入っていくということもできる。けれども、政治家になってやるにも、こう年をとってからでは駄目です。だからもう結局はできない。ということからいうと、結論は諸君に代わってやってもらうということです。だから諸君は「分かった。心配しなさんな。僕がやがて代わってやりましょう」というふうにやってもらいたいと思うのです。
それを実現するのは、他の誰かにやってもらわなくてはならない。誰かにやってもらうには、それを訴えなくてはいけない。そして日本の将来というものを立派なものにしたいというのが、私の願いです。
●百年先の青写真をつくる
そういうことをやっていくためには、百年先の青写真というものが、もう今日、政府になくてはならないわけです。「百年先はこうなる」という青写真を持ってなければいけない。ところが持っていない。そういうことではやはり困る。だから、百年先の青写真を政経塾でつくらなくてはならない。
われわれのやり方によって未来が変わってくるのですから、そういうことを考えてみると、お互いの50年なり70年の生涯というものは、永遠の過去・未来をつなぐ大きなつなぎ目である。そして、そのつなぎ目に故障があってはいけないわけで、最善のつなぎ目にならなくてはいけない。そのような最善のつなぎ目ということをわれわれは自覚することが大切です。そうすると、いかに生きがいがあるか、いかに使命が重大であるかということが分かるわけです。それを「諸君、やろうじゃないか」というのが、私の呼びかけです。
●天の命ずるところ
他にいろんないいことがあると言ってそれに転向するということでは、政経塾をやった目的が達成できない。だから、途中にどんな問題が起ころうとも、政経塾は「塾是」と「塾訓」にあるがごとき仕事をやっていく。個々の内容は変わっていくかもしれないが、狙うところは日本を救うことである。世界を救うことである。人々の幸福に尽くすことである。それが政経塾の本当の仕事である。「それを自分がやっていくんだ」と考えたら、途中で何か問題が起こっても動揺しないわけです。
諸君が選ばれて塾生になったということも、これは本当は諸君の力でもなければ私の力でもない。われわれの目に見えない大きな力が働いて、そして、この塾へお互いを引っ張り込んだのだと。これは、われわれの力以外の大きなものの力でやっているのだと。そういうように考えてみてはどうでしょうか。
自分の小さい知恵才覚で塾へ入ってきた、あるいは塾を開いたと、小さな考えではなく、「天がわれわれをして塾を開かせたのだ。天が諸君をして塾生たらしめたのだ。われわれは天命に服するのだ」と、そういう考え方を持ってみる。そうでなく、小さな範囲だけでものを考え、小さい目前の幸福感にとらわれていたら、何もできない。それでは人を説得する力が出てこないわけです。
だから、「われわれの力でこの塾ができて、そして集まって来たんだ」と思ったのでは大きな力は出ない。「これは天命だ」と。「天の命ずるところであり、われわれはその天の命ずるままに動いたんだ」と、そういう考えを持たなくてはいけない。小さい自分の知恵才覚で「こういうことをしたら損だ」とか、「こんなことをしたら出世が遅くなる」とか考えて、それで是非を決するというようなことでは、事は知れている。是非を乗り越えた、もっと大きな視点を持たなくてはいけない。
この塾をつくったのは、私の発意だし、入塾したのは諸君の発意です。小さく見たらその通りです。しかし、大きく見たら、自然の大きな運行の中に、この塾をつくらしめ、諸君を塾生たらしめたという力のあることを、われわれは考えなくてはならないと思うのです。それは目に見えないけれども、そういう力によってわれわれは動いている。だから、大丈夫だ。必ず成功する、というように考えられる。成功しなくてはならん、ということで、心も燃えてくるわけです。だから、塾のためでも、塾生のためでもないんだ、これは。大きくは天の命によってやっているんだと、そういうことが考えられるかどうかという問題です。考えられれば大したことができる。しかし、考えられなかったら、ただの塾生で終わってしまうわけです。
今は科学万能な世の中ですが、証明されるもの、論理的に適合するものだけが存在価値があると考えたら、間違いだと思う。いま言ったような、目に見えない力、目に見えない運命、そういうものがいかに大きく働いているかということです。