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テロ抑止力としては役立たない「対話と交流」の協調路線

「テロ」とは何か(2)「自由」はテロの遠因をなしたのか

山内昌之
東京大学名誉教授/歴史学者/武蔵野大学国際総合研究所客員教授
情報・テキスト
ジョン・スチュアート・ミル(英国の哲学者)
ISに触発された「欧州人テロリスト」の存在は、不気味で得体が知れない。しかし、世界史と国際情勢の両面から中東情勢を読み解いてきた歴史学者・山内昌之氏は、彼らの誕生した遠因を「ヨーロッパの育んできた『自由』そのものにあるのではないか」と見ている。その入り組んだ関係性を知ることは、私たちが「テロとは何か」という問いを読み解くための一歩となるのではないだろうか。(全4話中第2話)
時間:09:11
収録日:2016/04/05
追加日:2016/04/28
≪全文≫

●なぜニヒリズムからテロリズムへの変容が起こったか


 皆さん、こんにちは。前回は「ヨーロッパ人テロリスト」ともいうべき存在に触れましたが、しかしながら、ヨーロッパで生まれ育ち、フランス語やドイツ語、英語を母語として育った人々が、なぜテロに引かれていくのか。今回はそうした点について考えてみようと思います。

 彼らの内面に立ち入るのはなかなか難しいのですが、それを一種のニヒリズムから明白なテロリズムへと変容させていく遠因は、欧州をはじめ民主主義社会の「自由」そのものにあると、私はあえて考えています。

 ヨーロッパには、プラトンからイギリスのジョン・スチュアート・ミルを経て、最近のアイザイア・バーリンにまで連なる系譜があります。日本では、福澤諭吉にも影響を与えました。このような西欧の思想家たちは、「自由と権利」ないし「義務と責任」が互いに相補うものであり、相互性の中で動くことを緻密に組み立て、政治においても「自由論」として、これを援用してきました。

 ところが昨今、こうした自由論は非常に評判が芳しくなくなっています。あるいはそのような力が働いているといってもいいでしょう。


●伝統の「自由論」に対するマルチ・カルチュラリズムからの批判


 それは、こうした自由論を生み出してきたイギリスやフランスがかつて植民地主義や帝国主義で世界を支配したことに対する批判です。各地を支配し、地域独自の発展を遅らせた植民地主義や帝国主義の責任、そしてその悪しき遺産や伝統をどう考えるのかと迫る思潮を「ポスト・コロニアル批判」と呼びます。それはまた、「マルチ・カルチュラリズム(多文化主義、文化多元主義)」といわれる大きな流れになりました。これらの考え方は、伝統的な自由論が持つ偽善性について批判を繰り返してきました。

 しかし、「あらゆる文化は皆、同じレベル(次元)にあり、そこに優劣は存在しない」と考える多文化主義、あるいは文化相対主義の主張を、もし極度に政治化するならば、ヨーロッパ内部から一つの大きな潮流を生み出すことにつながります。それは、「自由論」とはまったく別のところにつながるものです。

 それが引いては、イスラーム自身の歴史や原郷の発見を阻害し、植民地化した米欧に対する攻撃がいかなるものであれ正当化される、少なくとも思想としては正当化されるという傾向をも生み出してしまうのです。


●善の論理を流用した悪の行動と向き合う欧州


 欧米社会においては、自由や民主主義にこだわる良心的な人々に限って、帝国主義への罪悪感が強いものです。文化・思想の多元性・複数性を尊重したヨーロッパは、EUの統合によって国境の往来を自由化しました。いいかえれば、ヨーロッパの民主主義は、国境管理を廃止したことで、自らを無防備のままにテロの浸潤・浸透を許す危険を内部から生み出したということです。

 多文化主義や文化相対主義が、神(アッラー)の唯一性を尊重するイスラーム信仰に対して寛大であるという事実や、寛大であるべきだという主張には、もちろん何の問題もあるはずがありません。しかし、同時にそれは、自らを真理の絶対唯一的な表現者だと若者に思い込ませ、イスラームにおける「神はアッラーをおいて他にない」という唯一性と強引に重ね合わせるような傾向につながったのではないか。すなわち、ISのような過激な政治潮流を許してしまったことの遠い原因になったのだ、と私は考えます。

 文化・宗教の多元性を認めることは、なくてはならない「善」です。しかし、「善」は、ともすればゆがんだ信条のために己を利用しようとする「悪」に対して無防備です。あえて言うならば、彼らが築き上げた民主主義の基礎をなす自由論や相対主義そのものが、テロの実現のために利用され、ヨーロッパは無防備のまま悪に向き合うことになってしまったというのが現実ではないかと思います。


●「交流・対話」が問題解決の決め手にならない理由


 それでは問題解決をどうすればよいのか、というのが、私たちに突き付けられた悩ましい問題です。対話をすればいいではないか、交流すればいいではないかというのが、その一つの答えです。しかし、いったい誰と対話をすればいいのか、誰と交流をするのかという問題が残ります。

 テロや戦争の被害者は、他ならぬムスリムその人たちなのです。イスラームを非常にゆがめて解釈した人たちによって彼らが攻撃され、テロの被害に遭っているというのが現実です。

 私の経験を申しましょう。私は、日本政府の中東文化ミッション(中東文化交流・対話ミッション)の団長として、3回ほど世界各国を歴訪しました。イラン、サウジアラビア、トルコ、ヨルダン、チュニジア、エジプトといった国々を訪れ、場合によっては複数回歴訪して各地で対話を重ねま...
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