●幸之助の原点は9歳から15歳までの丁稚奉公
前回は、松下幸之助創業者の経営に対する考え方をお話ししました。では、その原点はどこにあるのでしょうか。
その一部は、間違いなく9歳から15歳まで船場での丁稚奉公にあると思います。松下家は、「松の木の下に家があったから、松下さん」と言われたようで、比較的裕福な家でした。ところが、父親が米相場に手を出して大失敗をしてしまい、たくさんの借金を抱えたために、結局、家族がばらばらになります。幸之助創業者は、尋常小学校4年の卒業を待たず、9歳で丁稚奉公に出されます。
丁稚奉公というのは、ご存じの通り、子守りや使い走りをしながら住み込みで働き、実体験で商売を覚えていきます。初めてもらった給料は5銭です。90歳になってそれを振り返り、「今までで一番うれしかったことは、初めての給料5銭をいただいたとき」で、それまでは毎日母親が恋しくてメソメソ泣いていたけれど、給料をもらってからは泣くことをやめたと言っています。
●五代自転車店での経験が企業家としての出発点
最初の奉公先は、「宮田火鉢店」という火鉢屋さんでしたが、2、3カ月で「五代自転車店」に移りましたので、ここが企業家としてのスタート地点と言ってよいと思います。当時の輸入自転車といえば最先端のものですから、今で言うベンチャーのようなものでした。店主の五代さんは非常に立派な人で、商売や礼儀、その他細かいことまで教えていただいたと幸之助創業者は語っています。
この頃の幸之助創業者を表す詳細なエピソードが、一つ残っています。当時、商売をしていると、お客さまから「煙草を買うてこい」と言いつけられることが多く、その都度走って買いに行った。しかし、20個買うと1個おまけがつくという話を聞いて、買い置きを思いついた。1カ月あたり5、60箱は言いつけられるので、20銭から30銭の利益が出ました。当時の給料は1円でしたから、かなりの小遣いを稼いでご機嫌だったようです。
結局、親方から「周りの者がうるさいからやめておきなさい」と注意されたようですが、後年、「皆に分けてあげればよかったな」と言っていました。
ここで学校では学べない体験を数々経験し、特にお金の大切さを知りました。私が入社した時も、ご本人から「資金」についてはずいぶんやかましく言われたものです。
さらに、周囲の人たちと上手に付き合うことによって、大きな知恵が生まれてくることや、常に前向きであれば運が開けてくることなど、学校では学べないようなことを、9歳か10歳の頃から船場で学んでいきます。
●船場商人の思想と、松下幸之助の「商道」
ここで、皆さんはよくご存じのことと思いますが、船場商人の思想をご紹介します。
1が始末、2に才覚、3が算用、4に奉公、5が体面、6が分限です。
ただ商売をやるだけであれば、最初の三つ、「始末、才覚、算用」をしっかりすれば商売はできる。しかし、その商売を続けようと思えば、「奉公、体面、分限」といった精神性の高いものが必要になり、理念がなければやはり続かなくなります。
松下幸之助創業者は、そのことを「商道」というかたちで揮毫しています。一生懸命働いて、世のため人のために尽くすのが商売人である。それを「商道」としたわけです。
余談ですが今、NHK朝の連続テレビ小説で「あさが来た」が放映されています。私は夜に見ていますが、あの中の三井の商売を見ていますと、彼は「才覚、算用、始末」と言っています。始末が一番最後にあるわけで、始末を徹底したのでしょう。
さらに、「お天道さんは見ている」ということがあります。われわれも、子どもの頃に悪いことをすると、「お前、隣の家のトマトを盗んで食べただろう。お天道さんはちゃんと見ているぞ」などと、祖母から叱られたものです。そういう時代であったわけです。
●船場の「瀉瓶」は「サギをカラス」と言うが神髄
「瀉瓶(しゃびょう)」という言葉があります。「一器の水を他の器に移すがごとく、仏の教法を伝持して異解をなさざるをいう」意味で、本来は涅槃経の中に出てくる仏語です。
これが、「船場で最後の商人」と言われる和田亮介さんの解説によると、ちょっと違います。もともとは「瓶に入った水、つまり師の教えを、無条件に別の瓶、つまり弟子に移すこと」なのですが、船場の丁稚奉公にとっては「白を黒、サギをカラスと言われても、そのまま受け入れる」態度を指します。そして、一旦受け入れた後で、その中から新しい真実を生み出してくるのです。
私が入社した頃の松下電器の電池事業部も、やはりこういう雰囲気でした。私など、しょっちゅう上司にいろいろな説明を求めては、「とにかく黙って行って来い」と叱られたのを覚えていま...