●中国近代最大の問題は、新しい「外王」への対応だった
中国近代について少しだけ振り返った場合、一番大きな問題は何だったか。私は次のようなことだと思っています。よく「内聖外王」という言い方をします。「内聖」というのは、「内において聖人になること」です。ある種の宗教的な高みに、修養を通じて到達をする。自己修養、近代風にいえば自己啓蒙です。自分をどうやって啓蒙していくのか。これが「内聖」です。そして「外王」とは、外においては王であるということですから、政治を指します。その「内聖」と「外王」とが結び付くはずだというのが、前近代の中国あるいは前近代の東アジアの確信でした。有徳の王は、良い政治を行うことができるに違いない。このように考えていたのです。
ところが、近代において直面した問題は、新しい「外王」、新しい政治が登場したことでした。一つは民主主義です。そしてもう一つは科学です。民主主義と科学という、これらの新しい「外王」を、「内聖」とどう接続をするのか。新しい「内聖」が必要なのか。あるいは、古い「内聖」を少し変えるだけでいいのか。これが大問題です。
●日本のケース、中国のケース
日本の場合は、そこを非常に曖昧にしていきます。曖昧にしていって、どちらかと言えば、どっちつかずでやってみる。非常に中途半端な形で、「内聖」「外王」問題を処理していきました。
ところが中国は、先ほど申し上げたように、一方で非常に西洋化を進めていきます。いわば「内聖」という道を放棄するのですね。これが(中国の)メイン・ストリームです。例えばここで、梁漱溟という、非常に重要な中国の近代思想家を挙げておきました。彼はこう言いました。現代における新しい「外王」である民主主義と科学を述べるのであれば、それは西洋文化から学ぶべきであって、中国文化からではない。彼はこう言ったのです。
中国文化から言えることは何か、それは孔子や孟子の「情理」を再び活発にすることだけである。ということは、西洋文化に基づいている民主主義と科学、これは当時の普遍だったわけですから、それを考えるのであれば西洋文化から学ぶしかない。中国から(学ぶものは)出てこない。
もちろん中体西用論などはありました。日本でも和魂洋才という折衷的な考え方がありました。でも彼は、そんなものは無理だと言っているのです。そんな...