●現代中国で儒教を復興させる
もう一つの「王道」という概念も、再び浮上してきています。20世紀前半の日本も「王道」ということを口にしました。ただ日本の場合は、「王道」ではなくて「王道」の上をいく「皇道」と言いました。「皇道」によって、より高次の普遍を示そうとしたのです。(「皇道」に比べたら)中国的な「王道」は非常に限定である。日本は、こういった議論をしていました。
現在、「王道」という概念を再び問題にしているのは、例えばこの干春松(カン・シュンソン)という人です。彼は非常にシニカルな見方をします。彼は、前近代的な「王道」などをそのまま主張してもしょうがないと言っています。
そこで彼はどう言うかというと、「私たちは儒家や儒教的なものを普遍価値とみなす勇気を失ってきた」と言います。これは近代中国を考えれば妥当ですね。儒教などは封建制の象徴、後進性の象徴だといって、徹底的に捨て去られていきました。
しかしここで考えている問題は、いかなる普遍性も単一的なものではなく多様に構成されるものだ、ということではないか。もしそうだとすれば、前近代の儒家や儒教をそのまま復活させる必要はないにしても、その遺産から何かを汲み取り、ある種の多様性を構成するものとして使うことはできないか。
●あえて儒教を論じて、多様性を取り戻す
ただ他方で、彼の見方はシニカルでもあります。こう申し上げましたのは、次のような理由です。儒家の経典を読めば、現実の問題全てに対応するものを探し出すことができると言われてきた。しかしそう考えるのは、幻想である。彼は、そんなものはないと言っています。
(「王道」と言っても)古代の朝貢制度やその他の皇帝権体制に決して肩入れしているわけではない。(彼に言わせれば)そんなことは不可能です。むしろそうではない(古いものの単なる復活ではない)仕方で、伝統的な思想資源をもう一度使い直すことができないのか。
彼は、現在問われているのは、ディスコース(言説)の権利だと言います。ディスコースとは、われわれが語ることそのもの、すなわち言葉です。この言葉というものが、いったい今どうなっているのか。世界的に見ると、ほとんどの概念は西洋(の言説)に牛耳られている。日本もそうですね。例えば政治に関する概念でも、日本で使われるもののほとんどは、西洋発の概念です。中国でも同じです。
しかし、それで本当にダイバーシティ(多様性)が実現できるのか。何らかの形で、古い概念を鍛え直す。鍛え直して、何かそこに新しい可能性を見出していく。そういった努力をしなければ、西洋的なディスコースも実は本当に受け入れられたことにならないのではないか。(干春松が表明するのは)こういう危惧です。
●背景にあるのは、中国の全面的「西洋化」
これは、昨日今日で生じた危惧ではありません。近代中国はどちらかと言えば、全面的に西洋化をしようとしたのです。先ほど申し上げたように、儒教的なものは徹底的に弾圧されました。実は中国は、日本以上に西洋化されてしまっていったのですね。日本の方がはるかに伝統的なものを残しているのです。ところが最近の中国は、一種のバックラッシュ(反動)が生じていて、もう一度中国的なディスコースの権利を回復すべきではないという事態になっています。
ただ日本以上に伝統的なものを捨て去ってきたために、回復と言ってもそう簡単ではありません。儒教的な概念といっても、若い世代の人にとっては、全く見ず知らずの概念だからです。特に若い人の、伝統的な考え方に対するアレルギーは大変大きいものがあります。なぜそんなものを再び使う必要があるのか。当然、こういう反応が出てきます。実は「王道」の議論は、それを見越した上で為されています。