●重要なのは「方法としての中国」
最近になって、趙汀陽さんは「中国の夢」について、このように言っています。これは非常に重要なので、よくお読みいただきたいと思います。中国の本質とは何か。それに対する答えとして「本質はない」と言ったのです。
確かにそれはその通りです。先ほど、文化などと下手に言っては駄目だと言いましたね。そんな言い方は軽佻浮薄である。では中国とは何か。彼は、それは「方法としての中国」、もしくは「方法論的な中国」であると言います。
難しい言い方です。「方法」としての中国であって、「実体」や「本質」としての中国がそこにあるわけではない。そんなものはどこにもない。中国というのは一つの「方法」なのだ。「方法」だということは、その方法を適用することで、何かが動き出したり何かが始まったりする。そういうことですね。
では、その「方法」としての中国とは何か。それは、この「普遍」に貢献する中国という夢であり、(「方法」は)その鍵を握っているものです。それはスライドの右の方に書いてあるように、「(水のように)きわめて柔軟な仕方で選択を行うこと、これが「方法としての中国」である。いかなる主義・イデオロギーにも拘泥しない。そういう柔軟性こそが「方法としての中国」である。方法論的中国は、いかなる信念であれ、基礎付け主義を放棄する。あるいは、原理主義を放棄する」(基礎付け主義というのは、何か基礎がきちんとあり、その上に全てを組み立てていけば、確固としたものができるだろうという考え方です)。こういう言い方をしているわけです。
●元ネタはあの日本の思想家
しかしこれは、趙汀陽という、現在の中国の思想家が初めて言い出したことではありません。ここには、ある種のエコーがあります。どのエコーか。日本のエコーです。「方法」のことを最初に論じたのは、日本の思想家です。これはもう完全に分かっています、竹内好です。
彼自身は、「方法としてのアジア」と言いました。中国やアジアを、「実体」あるいは「本質」として前提にすることはやめよう。そんなものはどこにもない。同時に日本もそうです。そのような日本(の「本質」や「実体」)があるわけではない。大事なことは、西欧的な普遍に対して、アジアや中国あるいは日本というものを「方法」として置くことにより、それを乗り越えることだ。そう...