●体制が手懐ける儒教、体制を批判する儒教
質問1:最近の中国で儒教が見直されているのは、中国政府からの側面と草の根的な側面とが両方あると思うが、そのバランスはどうなっているか。
中島 イタリア人思想家のジョヴァンニ・アリギという人が書いた『北京のアダム・スミス』という本があります。これは非常に話題になった本で、「今の中国こそが、アダム・スミスの精神を反復しているのではないか」と議論されています。おそらくこれは、温家宝首相時代の中国社会をアリギが見て、そこにある種の市場経済の可能性を見たのです。資本主義といいながらも、それとは違う可能性があることを認めようとした本だったと思います。その後の中国が、本当にアリギが言ったようになったかというと、なかなか微妙なところがあり、私はアリギの理想通りにはいっていないような気がします。
私はずっと中国の儒教復興を追いかけてきたので、儒教に関していうと、面白いことに、儒教そのものの幅が広く、単に体制を擁護するだけのディスコースではないのです。儒教には、体制に対して非常に批判していく面も持っています。実際、儒教の中には革命思想があります。儒教の中には、一種の人民主権のような思想があるため、その扱い方を間違えると、やけどをする考えなのです。
ある時期までの中国の政権は、儒教を何とか手なずけようとはしていたと思います。ただそれでもなかなか、うまくは手なずけられないのです。最近の状況を見ていると、政権は少し儒教から距離を置いているのかという気がします。私は、儒教は儒教普遍主義と呼べるものを持っていると言ったらいいと思いますが、やはりそれは手に負えない面を持つのです。だから、ポスト毛沢東時代の共産党のレジティマシー(正統性)を補強するためには、儒教はおそらく思ったほど役に立たなかったのではないかという気がします。
●儒教は「市民宗教」になれるか
では他に、儒教に代わるものが何かあるかといっても、なかなかありません。そのため、様々な投資をして、何とかつなぎ止めようとはしています。ですが、原理的に難しいところがあるという印象を持っています。
それは、戦前の日本でも同じでした。儒教を一生懸命使おうとするのですが、どこかうまく使いこなせないのです。体制からはみ出してしまう。儒教にはそうした面がどうしても残りました。例えば、教育勅語のような形でうまく取り込もうとしましたし、国民道徳論でもやりましたが、それでも外れてしまうのです。ただ今の質問で問題になるのも、そこをどう考えるか、ということではないでしょうか。
今回ご紹介した人たちは、儒教の外れていくような普遍主義に一種の希望を見出しているという感じを、私は受けています。儒教を、政権の意向とは違う仕方で使う。こういう努力があるのかという気がします。非常に微妙な戦いですが、そこにチャンスを見いだそうとしているのでしょう。
ロバート・ベラーの市民宗教という概念が中国では現在大いにはやっていて、儒教がその市民宗教であるというのです。もちろん市民宗教は民主主義の中でのみ実現可能な概念ですから、市民宗教は儒教であるということは、やはりある種の戦いになるだろうと思います。ただ、うまくいくかどうかはよく見ておかないといけません。
●台湾の経験をどう生かすか
議論の中に出てきませんでしたが、台湾をどう考えるかは、案外大きな問題です。中華人民共和国だけで考えて済むのかといえば、台湾という経験をどう考えるかという問題になります。台湾は別の道を歩みました。社会的には、経済的な豊かさの達成をしていくと、同時に台湾では、儒教的な教育や価値を非常に守っているのです。この点が、大陸とはまったく違うのです。大陸はそれを捨てましたから。
その台湾の経験を、これからどうしていくのがいいか。私の印象では、中国は台湾の経験を実は非常によく参照しているのではないかという気がします。さらに、その台湾の経験をつくり上げていたのは、植民地時代の宗主国である日本です。だから、日本の20世紀前半のいろいろな議論が、再び台湾を経由して入るということもあるのです。だから日本も、実は外にただ立っているというわけではありません。そんな気がします。
●近代化=西洋化とは単純にいえない
質問2:中国の原理主義と普遍の問題は馴染まない気がするが、そこで矛盾は生じないのか。
中島 なかなか難しい問題ですね。例えば、近代西洋がどういう形で登場してきたのかを考えると、近代は西洋から自生的自発的に出てきたとはいえないと、私は思っています。それは逆に難しい。私は、ある仕方での中国の衝撃が、ヨーロッパに対してもやはりあったと思います。実は、それに対するリアクションとして西洋近代が成立し...