●ロバート・ベラーの「倫理的近代」
この問題は、副題の3番目に挙げた、資本主義の問題とも深く関わってきます。私は、晩年のロバート・ベラーという人とお付き合いをしました。現在、アメリカの大統領選挙の真っ最中ですが、ベラーさんは多分、バーニー・サンダースさんなどと非常に近い考えをお持ちだったと思います。同時に彼は、非常に敬虔なクリスチャンでもありました。世俗化の時代、すなわち宗教と政治が切り離された時代の後に、宗教とは何なのかをもう一度問い直した人です。
ここに「倫理的近代」と書きましたが、彼自身は近代には光と影があると言いました。20世紀を考えると戦争の世紀ですから、近代がもたらした影の部分は非常に濃かったと言えます。では近代を捨て去ったらそれでいいのか。そんなことはない。近代には、光の部分もやはりあったのではないか。近代には、ある種の解放の思想があった。それを彼は、「倫理的近代」と呼んでみるのです。
ここでいう倫理とは、それほど強い倫理ではありません。どちらかと言えば非常に弱い倫理です。ここに書いておいたように、近代の倫理性を担保しているものは三つあります。一つは経済、これは面白い見方です。経済が独立をしたことが、人間にとっては非常に意味がある、という見方です。もう一つは公共圏です。これは、市民が自由に意見を交換する領域です。近代になってこれが成立した、ということです。そして、最後は主権が人民に移ったことです。この三つが、倫理的な近代を支えている三本柱ではないか。ベラーはこう考えます。
●近代資本主義と倫理を接続せよ
その経済についていえば、ベラーが注目するのはアダム・スミスです。スミスは、先ほど申し上げたデイヴィッド・ヒュームとともに、スコットランド啓蒙を体現している人です。スミスは何を考えたか。「スミスは、自立的な経済が作動するのは、非経済的な動機の周りに組織された、倫理的で政治的な枠組みにおいてのみだと考えていた。スミスは経済的なリベラルであったが、ネオ・リベラルではなかった」。ベラーはこういうことを言っています。
確かにスミスは、『国富論』の著者でもあると同時に『道徳感情論』の著者でもあります。つまり、近代の弱い道徳的規範を、人間の身体や感情に基づかせました。これはヒュームと同じ見方です。ここに可能性を見出していくのです。そして経済は、このような非経済的な動機の周りに組織されなければ機能しない。スミスはこういうことを言ったのです。
ベラーとしては、現在のグローバルの資本主義に対抗するためには、アダム・スミス的な市場経済を回復したらいいのではないかと構想していました。ただ、それが本当にうまくいくかどうかは分かりません。倫理と経済のバインド(結束)は、1年半前のJBCの講演会(「グローバル化時代の資本主義の精神」として全6話を10MTVで配信中)でも、私は縷々(るる)申し上げました。日本の近代も、それを何とか実現しようとしましたが、やはり今はそこから離れてきたのだろうと思います。
ただ、もう一度ベラーの「倫理的近代」について考えていくと、やはり資本主義というものが、近代における解放の原理だったわけです。それが今、当初の意味とは随分と遠くへ行ってしまっている面があります。だから、そこにこういう倫理性の問題が意味を持ちます。当然この倫理性は、それぞれのローカルな文化と何らかの仕方で接続されなければ、有効な倫理性は生まれてきません。やはりここでも、今まで話してきたことが議論できるかと思います。ということは、東洋的な普遍が、ここでももう一度問われることになるだろうと思います。
●「人権」は紆余曲折を経て普遍化した
最後に、フランソワ・ジュリアンの議論を参照しておきたいと思います。以前私は、フランソワ・ジュリアンの翻訳を数多くやりました。1冊は絶版になってしまいましたが、まだ古本では流通しているようです。『道徳を基礎づける』という本ですので、ご関心のある方は、ご覧いただければと思います。これとは別に、たまたま数年前に、彼の『普遍について』という本を書評したので、その一部をご紹介したいと思います。
今、普遍を考えるとは何か。すごく単純に言うと、人権という概念があります。人権という概念は、ヨーロッパにおいて歴史的に誕生した概念です。これは当たり前です。しかしそれが普遍的であるとはどういうことかを問うたことで、人権という概念自体は歴史の中で変容し、深められてきたのです。
例えば、フランス革命の時に掲げられた人権が意味したのは、男性だけです。しかし、それが世界人権宣言になると、今度は全ての人間について保障されるようになっていきます。人権概念は最初から普遍的だったわけではありません。それ...