●メイヤスーの近代科学批判
もう一つの重要問題である科学について、少しお話をしたいと思います。われわれが科学と聞くと、非常に客観的で、まさに普遍的なものだと考えますが、本当にそうなのかということです。
私が、たまたま今月(4月)書評をした本があるので、それをご紹介しておきたいと思います。カンタン・メイヤスーというフランスの哲学者が書いた本です。
最初の問いが面白いのです。例えば、「天体物理学者や地質学者、古生物学者が、宇宙の年代や地球の年代、人類以前の生物種の出現年代、あるいは人類そのものの出現年代について論じるとき、その学者たちはいったい何について語っているのだろうかという問いです。人間の生まれる前の宇宙について考えるとは、いったい何をしていることになるのか、ということです。
科学者はそんなことを平気でやります。あるいは、少し議論を変えて、人間が滅びた後の宇宙を考えることも当然できます。しかしそれは、いったい何をしていることになるのか。当然そこに人間がいないわけですから、人間と全く無関係の世界について考えるということを科学者たちは行っています。人間なしでこの世界が存在したとしても、別に構わないわけです。
しかし、科学者たちが本当は何をしてきたかと言えば、科学という営みを人間につなごう、つなごうとしてきていたのです。これを「相関主義」といいます。科学を人間と相関させる。例えば「観測」です。人間は観測をします。観測するのは人間だけです。人間以前の宇宙を観測するのも人間です。そうすると、その観測には人間の影が必ずあるのではないか。メイヤスーはこういう言い方をします。
●科学は「人間なしの世界」という悪夢を切り開いた
このメイヤスーが言いたいのは、科学は相関主義などではないのではないか、ということです。本当の科学の衝撃とは、相関主義が一切ないような絶対主義ではないか。絶対的な普遍を考える。科学は、そんな恐ろしいことを私たちに投げかけてしまったのではないか。現代科学ですら、まだある種の相関主義を引きずっているわけですが、科学はもっと空恐ろしいものではないのか。こういう言い方をしています。
それがここです。近代科学がやったこととは何か。それは、ガリレイ=コペルニクス的転回がやったことで、「人間から分離可能な世界」があることを示したことです。それから、世界に対する人間の思考を脱中心化したことです。科学の世界は、人間の思考が中心にはありません。私たちが存在しようがしまいが、一切影響を被ることなく世界が持続している。科学は、この恐ろしいことを発見したのではないか。当然ここで、人間とは何なのかということが問われます。人間が存在する意味はあるのだろうか。この問いが出てくるのです。
メイヤスーはこれを、非常に象徴的な言葉で「非理由律」と表現します。理由に非ず。この世界がこのような仕方であるには、理由がない。科学的、特に数学的な科学を突き詰めていくと、どうもこの世界には理由というものがないのではないか、と思えてくる。もちろんライプニッツぐらいまでは「理由律」の時代ですから、「この世界は意味がある」「こういう理由がある」と言ってきたわけです。最終的な理由の根拠は、神です。神がいたから世界があるということです。でも科学が示したのは、神などいなくてもいいのではないか、さらに言えば人間などいなくてもいいのではないか、ということです。そうすると、理由の不在ということに耐えながら、この世界はあるかもしれない。科学は、そういう恐ろしいところにまで触れてしまったのではないか。これがメイヤスーの問いです。
そして、こちらが非常にすごい問いです。
「いかなるものであれ、しかじかに存在し、しかじかに存在し続け、別様にならない理由はない」
つまり理由がない以上は、この世界が別の仕方であってもいいわけでしょう。この世界を支配している物理法則が、別にあっても構わないわけです。今の哲学は、そこまで問いを深めてしまった、ということです。
とはいえ、この偶然性を言祝ぐ議論は、一種の悪夢にもなります。ここには法則がないわけですから、全く頼るものがないのです。この世界が別様にもなり得るというのは、1つの希望でもあります。しかし当然、悪夢でもあります。科学的な法則の安定性が消えてしまいます。
●偶然的な世界で、普遍的な道徳は確立できるのか
そこで問題になってくるのが、いわゆる「ヒューム問題」です。私は、デイヴィッド・ヒュームという思想家のことを非常に面白いと思っています。アダム・スミスと同世代で、スコットランド啓蒙の旗手ですね。スミスと一緒にスコットランド啓蒙の一翼をなした人で、カントを「独断の眠り」から覚ましたことでも有名...