●「ニューリベラリズム」を警戒する声
―― 皆さま、こんにちは。本日は柿埜真吾先生に「日本人が知らない自由主義の歴史 後編」ということでお話を伺いたいと思います。柿埜先生、どうぞよろしくお願いいたします。
柿埜 よろしくお願いいたします。
―― 前編の前回では、「自由主義の歴史」ということで、古典的なリベラリズムからニューリベラリズムへと移っていく過程をご説明していただきました。後編が始まるにあたって、前編の内容を簡単にご説明いただくと、どのようなイメージになりますか。
柿埜 自由主義はもともと、個人の選択の自由を重視するための政治制度をつくろうという思想で、経済的にも自由な社会を作ろうという市場経済重視の考え方でした。
この古典的な自由主義が途中から、政府が介入していろいろな社会福祉のようなものをやったほうがいいのではないかという思想に、だんだんと変わっていく。これが「ニューリベラリズム」です。20世紀になると、特にニューリベラリズム的な発想に古典的リベラリズムは取って代わられるようになってきたという話です。
―― 先ほど先生にお伺いしていますと、普通の自由主義の教科書(特に日本の場合)は、だいたいこの辺りの話(前編)で終わりだということです。けれども実は、その後が大事だということですね。
柿埜 そうです。日本で一般的なリベラリズムの説明は、「古典的自由主義はダメだった。それに代わって、ニューリベラリズムという素晴らしいものが出てきた。その上で、現代のリベラリズムとはこういう考え方だ。再分配をとにかくたくさん行わなければいけない。国が全部、行わなければいけないのだ」というところで普通は終わってしまう。実はそれが全てではありません。それに対抗する重要な潮流がきちんとある、というのが今日(シリーズ後編)の話になります。
―― しかも、特に世界各国で見た場合はかなり強い勢力もあるので、その部分が分からないと、日本人も「自由」というものが理解できないということですね。
柿埜 そういうことです。
―― では、さっそく後編にいきたいと思います。今、先生がおっしゃったように、ニューリベラリズム(「政府が積極的に介入すべきだ」という意見)に対して、異議申し立てをする思想が出てくるということです。
柿埜 もともとのリベラリズムは、先ほども少し説明しましたけれども、民主主義だからといって、例えば政府がなんでもやっていいわけではない。人権を守らなければいけないし、あまりにも経済に介入しすぎると民主主義の政府でも暴走することがある(「多数者の専制」という考え方です)。
これは、トクヴィルやジョン・スチュアート・ミルといった思想家が強調した点です。そのように多数派が暴走することもあるから、少数派の権利を守るために政府は介入しすぎてはいけないのだと。
あるいは、アクトンというイギリスの自由主義の思想家は、「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する。だから、政府が民主主義的に選ばれているから、善意を持っているはずだと思って、なんでもかんでも権利を与えすぎてはいけない」という考え方だったはずでした。
ところが、ニューリベラリズムは「民主主義だから、国民に選ばれている代表がこうしてやっているのだから、政府にはいろいろな権限をどんどん与えなければいけない。とにかく政府は正しいことを行う。福祉のために行動しているのだから何を行ってもいい。制限は要らない」という考え方に、だんだんと流れてしまうわけです。
「でも、これは危ないのではないか」と言う人が、古典的な自由主義者の中にきちんといたのです。皆がニューリベラリズムに、「ああ、そうだそうだ」となってしまったわけではなかったのです。
●「絶対主義的な専制国家が現れる」スペンサーが発した重要な警告
柿埜 あまり注目されないのですが、とりわけ面白い思想家がハーバート・スペンサーとアルバート・ダイシーです。
―― 両者はどのようなことを主張したのですか。
柿埜 スペンサーは「権力の制限というリベラリズムの大事なポイントを忘れたリベラルの人たちは、もはやリベラルではない」という、――彼は19世紀の終わりのほうに活躍した思想家ですが――重要な警告を発しました。
19世紀の人たちにとっては「え?大げさなことを言っているのではないの?」と思われたに違いないと、私は思います。「奴隷制が迫っている」「今のリベラルは、実は古いトーリー(トーリーとはリベラルと対抗している「非常に頑迷な保守」ということです)に成り下がった」という滅茶苦茶な批判をしているわけです。
当時の人たちはあまりピンとこなかったはずですが、スペンサーが言っているポイントは、「政府...