●国家はそもそも必要なのか
―― では続きまして文献編として、次はノージックの『アナーキー、国家、ユートピア』ですね。
柿埜 これは先ほど出てきたロールズに対する強烈なアンチテーゼをぶち上げた人です。
―― ロールズの『正義論』は1971年でした。こちらが1974年ですから、ちょうどその直後に書かれています。
柿埜 そうなのです。ロールズが正義という話をしたのに対して、「それは正義ではないだろう」というのが、このノージックの主張です。
ノージックはハーバード大学の哲学者で、どちらかというと、いわゆるリベラルのエスタブリッシュメントの間に生きていた人ですから、彼がこの本を出したことは衝撃をもって受け止められました。彼はロールズと同じように、「社会契約論で話をしてみようではないか」というわけです。
―― あえて行ったわけですか。
柿埜 というか、彼自身、社会契約論的な発想に共感しているのです。だけれども、出てくる結論は全然違うわけです。
そもそも社会契約論を考える上で大事なのは、「国家など要るのか」という話だったのです。ロールズの場合は、国がどうするかということが最初から前提になっていて、国が全部を持っているような発想だったわけですけれども、「そもそも個人の権利が最初にあるよね」というのがノージックの発想です。
要するに、ノージックは「個人の権利があって、その権利を持った個人が果たして国家など必要だと考えるだろうか」というところから始まるのです。そして、ノージックが導き出すのが「最小国家論」という考え方です。要するに、人々の所有権や生命、財産の権利といった権利を侵害せずに国家を設立することはできるだろうか、と考えるわけです。
そうするとノージックは(いろいろと議論しているのですが、考えていくと)、「自分の安全を守るために国をつくる。国に国防を任せる、治安維持を任せる、というところまでは納得できるだろう。だけれども、それ以上になったら、納得できるような国家はできない、個人の権利を侵害せずにきちんとした国をつくることはできない」というわけです。
例えば国が非常に高い税金を取って、国が望ましいと思っている公共事業に使うとしても、その税金は個人にとって役に立つものだとは限らない。そういった役に立つとは限らないものを強制的に取るのは、その個人の得になっていないことをさせるわけだから、権利を侵害している、というのです。
これは極端に聞こえます。私も若干、極端だとは思うのですが、でも、確かに、あまり必要のない国家なるものをつくる必要はないかもしれないという発想は、斬新で面白いと思います。
―― ですから、これは発想としては、それこそジョン・ロックの社会契約論と似てくるわけですね。
柿埜 まさにそうです。これはロックの現代版なのです。ノージックもロックを大変尊敬している人です。
●「再分配が正義とは本当か」
柿埜 ロールズとしては、再分配は正義だったわけですが、「再分配が正義とは本当か」というのがノージックの疑問です。
ノージックはスポーツ選手の例を出しています。スポーツ選手が大活躍をして、皆から「素晴らしい」と思われて、それで皆が満足してお金を払った。チケットを買って、それで拍手喝采した。そして皆、満足して帰った。終わったら、このスポーツ選手は豊かになっていますよね。「これは不正ですか」という話です。 「これの何が不正なのですか」というのがノージックの言いたいことです。これについては、私もそう思います。
つまり、ロールズ流の正義では、誰も客観的に見て不正を犯しているわけでもないし、誰かを傷つけているわけでもないのに、誰かが豊かになったら正義が侵害されたことになってしまって、誰も悲しんでいないはずなのに不正義が行われたことになる。なんだか不思議ですね、ということがノージックの指摘です。これももっともだと私も思います。
ハーバードの哲学者が基本的には非常に左翼的な発想だった(昔はそうだった)中で、こういうことを言ったことはすごいことで、ノージックはかなり叩かれたらしいのですが、勇気ある人だったと思います。
ノージックはロールズと同じように、人間の理想は一つではないことは認めるのですが、そのためには、ロールズの言っているような再分配の社会ではなくて、市場経済がむしろその理想をかなえる社会である、ということを指摘しているのです。
市場経済は(ハイエクやフリードマンも言っていることですが)、皆が自発的な協力の下で、(アダム・スミスの時代からすでにそうですけれども)自発的な交換によって成り立っている社会です。別に誰かが何かをぶんどるなどではなく、平和的に皆...