●「大恐慌」で本当に市場経済は終わった?
―― そのような角度、そのような立場からニューリベラリズムへの異議申し立てがなされていきました。戦後まで俯瞰した形になりましたが、少し時代は戻りまして、戦前の時期にもう一つ大きかったのが「恐慌」です。
先ほども少し話が出ましたけれども、恐慌が起こって完全に、市場経済の自由放任はもうどうにもならないのではないかという意見が根強く広がる形になったということですね。
柿埜 「大恐慌」は市場経済がほんとうに終わった証拠だと――その前からいろいろ非難されてはいたのですが――だいたいの人は、そう考えたわけです。
でも、「ほんとうにそうなのか。自由主義はほんとうにダメなのか」と思った人たちがいました。先ほども話が出ましたが、「ネオリベラリズム」「新自由主義」と言われるのは、実はこの時に出てきた人たちです。
―― なるほど。
柿埜 彼らの主張は何だったか。「大恐慌で確かに今の経済は破綻したかもしれない。けれども、これは自由主義が間違っていた、市場経済が間違っていたということではない。適切な規制を政府がしなかったからこうなったのだ。介入すべきときには介入しなければいけない。だけど、介入してはいけないときは、介入してはいけないのだ。なんでもかんでも国が介入して全部をやればいいというものではないだろう」ということを彼らは指摘するわけです。
だから、当時出てきた国家主義的な発想や社会主義的な発想に対して、「自由放任ではダメだけれども、自由放任でも国家主義でもないバランスの取れた場所があるはずだ」というものが、「ネオリベラリズム」といわれる考え方なのです。
私たちはなんとなく「ネオリベラリズム」という名前を聞くと、「あくなき市場原理の追求」「利益至上主義」「恐ろしい〇〇」「貪欲の〇〇を肯定する金儲け主義」など、いろいろ言われています。
―― 今であれば、そういうイメージが強いですね。
柿埜 全く違います。本当のネオリベラリズムを唱えた思想家は、むしろ「自由放任ではダメだ」と言っている人なのです。自由放任ではダメだけど、国家主義でもダメだと。
―― 全部を計画経済で行うのはよくない。その危機に至らないように必要な介入はしなければいけないけれども、全てに介入するわけではないと。
柿埜 そのバランスをうまく取っている考え方なのですが、残念ながら、今は変なレッテルとして使われてしまって、よく理解されていないのです。
●リップマン・シンポジウム…「ネオリベラリズム」の登場
―― 今、柿埜先生にお話いただいたような意味でのリベラルを立て直すための国際会議が、この時期に開かれた「リップマン・シンポジウム」です。ここで、今ご説明いただいたネオリベラリズムが生まれていくことになるわけですね。
柿埜 このリップマンというのは、考えがいろいろ変わったりするのです。
―― 考え方がけっこう変わるのですか。
柿埜 ええ。ですが、この時代は、リップマンは本来の意味のネオリベラリズムの発想をしていました。
―― 「この時代」というと、リップマン・シンポジウムが1938年ですから、そのあたりの時代ということですね。
柿埜 彼は国家主義でも自由放任でもない、新しい自由主義が必要だということを当時は唱えていたので、それに賛同する人たちが集まったのがこのシンポジウムです。
そこで、自由放任でもないけれども、社会主義でもない。例えば、少しお話をしましたけれども、ミーゼスやハイエクの指摘した統制経済の弊害をきちんと理解した上で、価格を統制するなどといった市場経済を否定する類の介入をしない。ただ、「市場の失敗」といわれるような市場がうまく機能しないケース――独占だったり、環境の汚染だったりといった「外部不経済」という市場がうまく機能しない場所――には政府が介入する。あるいは、とても貧乏な人に対して、政府がきちんと社会福祉をするということは必要だと。
―― そうすると、例えば社会福祉を認めるなど政府が介入していくことを認めるとなると、ニューリベラリズムの考えとも一脈通じているけれども、一番大きな違いは、統制経済を認めるか、認めないかになるのですか。
柿埜 そうですね。一番大きな違いは、ニューリベラリズムは「権力の制限」という点がどこかに行ってしまっていること。全員が全員そうではないのですが、そうなりがちな傾向があります。ネオリベラリズムはそれに対して、権力が暴走する危険を重大に捉えているところが大きな違いです。
―― なるほど。
柿埜 市場が機能しないときに、ニューリベラリズムでは「国営化、社会主義」という方向に行きがちだけれども、ネ...