●「リバタリアニズム」とはどのような思想か
―― 一方で、「ネオリベラリズム」ではない言葉として「リバタリアニズム」という言葉も、日本でも、ごくたまに聞くようになってきている状況だと思います。このリバタリアニズムは、日本人からするとなかなか理解が難しい言葉ですが、どのような意味の言葉でしょうか。
柿埜 今、「ネオリベラリズム」と自分で名乗っている人は誰もいません。この誰もいない考え方とは違って、「リバタリアニズム」はきちんと自分で名乗っている人がいて、実際にきちんと支持を集めている考え方の一つです。
リバタリアニズムは、アメリカで出てきた考え方です。なぜアメリカで出てきたかというと、これは非常に単純で、アメリカでは、 先ほどもお話しましたけれども、「リベラリズム」という言葉が完全に左派の意味で使われていて、社会主義とニアリー・イコール(≒)になってしまっています。この状況では、本来の古典的な自由主義を主張したい人たちは、やや都合が悪いわけです。
アメリカではリベラルと名乗ると、どうしても社会主義者と誤解されてしまうので、いっそのこと別の言葉を使ってしまおう、ということで出てきたのがリバタリアニズムという言葉です。
リバタリアニズムは基本的に(「自由至上主義」などと訳されることもありますけれども)古典的自由主義を引き継いで、個人の自由を何よりも大事にするという思想です。
―― はい。
柿埜 アメリカではリベラリズムというと、基本的に「大きな政府」「再分配」とほとんど同じものだと思われてしまっているので、リバタリアニズムを使う人が増えているという感じです。
●「リバタリアン」の思想的特徴をノーラン・チャートで整理
―― このリバタリアンの思想的特徴について、ノーラン・チャートという図を示していただいていますが、この図はどのように読めばいいのでしょうか。
柿埜 このノーラン・チャートは、リバタリアン党(1971年につくられたアメリカの政党で、マイナーな党)のノーランという人が作った図です。これは、リバタリアンがどういう思想かということを非常に明確に表している図です。
リバタリアンとは、ひと言でいってしまうと、個人の選択の自由を中心に置き、社会的な、要するにマイノリティといった人たちの多様な考え方を認めるということです。宗教など、そういったものでも皆が自由に選択できるようにする。そのような社会的な自由と、それと経済的な自由を、両方とも認める。それがリバタリアンの思想です。
いわゆるリベラルの人たち(どちらかというと社会主義的なリベラル=ニューリベラリズムな人たち)は、「経済的自由は制限していい」と思っている人が多いわけです。つまり、社会主義であったり、社会主義までいかなくても、とにかく政府が悪い企業を全部規制するのだという発想をする方が、リベラルの人には多い。ですが、個人の多様性を認めるということには寛容な人が多いのですね。
最近のリベラルは、社会的な個人の自由も制限するような人が若干いないわけでもないので、もはやなんだか分からなくなってきています。ですが、一般論としてはやはり、そういったいろいろな人たちが国に強制されないで自由にするということを認める傾向があるわけです。ですから、個人的自由は認めて、経済的自由は認めないというと、いわゆるリベラルになります。
これに対して、いわゆる保守の人は、アメリカだと特に分かりやすいと思いますが、キリスト教原理主義のようなものを信奉している方がけっこう多くいます。市場経済には好意的で、経済的自由は比較的認める傾向があるのだけれども、例えば女性が中絶する権利を認めない、特定の考え方を皆が学ばないといけない、聖書が大事であるなど、そういう個人の自由(多様性)を認めない傾向があります。ですから、個人の自由は認めない傾向があるけれども、経済的自由は認める傾向があるのが保守です。
そして、これは最悪ですけれども、経済の自由も認めず(全部を国が管理する)、そして個人の自由も認めない。ソ連であれば、例えば同性愛者は逮捕されて強制労働させられたりしました。あるいは、ユダヤ人だと不公平な扱いを受けたこともありました。そういった個人の自由も全く認めないし、経済的自由も全く認めないという最悪の体制が全体主義になります。
つまり、こういう個人の自由と経済的自由がある中で、片方は認めるけれども片方は認めないという中途半端な立場にあるのが保守やリベラルです。それに対して、全部を認めないという悪い意味で一貫しているのが全体主義です。個人の自由も経済的自由もどちらも認めましょう、皆がしたいこと、...