●ニューリベラリズムを基礎づけたロールズの『正義論』
―― 次に文献編ということで、特にニューリベラリズムとリバタリアニズムが、それぞれどのような主張をベースにしているのかを読み解いていきます。
最初に、ニューリベラリズムの古典として先生に挙げていただいたのが、ロールズの『正義論』という本です。これはどのような本になるのですか。
柿埜 このロールズの『正義論』という本は、ニューリベラリズムの流れを汲んでいる、アメリカのリベラリズムの古典と言える本です。これはベンサムの功利主義に基づく自由放任的な自由主義に対する反論というか、それを否定して、ニューリベラリズム的な発想を(ここではニューリベラリズムとはいわず、むしろリベラリズムという言い方を彼はしていますけれども)哲学的に基礎づけた本です。
ベンサムの功利主義は、それ以前の社会契約論に基づいた理論(やや神学的な発想が入っているもの)に対し、「個人の幸福、効用に基づいて社会を考える」という合理的な発想で自由主義社会を正当化したものでした。それに対してロールズは、「いやいや、社会契約論はほんとうの正義や自由などの問題を考える上では、むしろ大事なのだ」と言って、ある意味でそちらに戻るところが面白い点です。
この社会契約論をロールズが考えるにあたって前提にしているものは、「善に対する正義の優先」といわれる発想です。
これはどういうことかというと、いろいろな望ましい「目標(善)」が人間にはあるわけです。だけど、どれかが絶対的で、それを押し付けることはよくない。そういうことをすると、いろいろな善のうちの一つだけを取ってしまって、他を抑圧することになってしまう。だからそうせずに、いろいろな目標を人々が追求できるように、制度をつくらなければいけない(これは正義であるわけです)。これをつくらなければいけないというのが「善に対する正義の優先」です。
―― これは、要は「いろいろな善があるのだから、いろいろな人たちがそれぞれの善を追求する権利を尊重する。それが正義である」というイメージですね。
柿埜 ですから、ここは先ほど(第5話)のノーラン・チャートの図ですと、多様性を認めるというリベラルの発想なわけですね。個人の自由は大事だという発想です。
●「無知のベール」理論と「マキシミン原理」
柿埜 ですがロールズは、では経済的自由は認めるかといったら、認めないわけです。どういう設定になっているかというと、ロールズは公平な社会、正義の制度を考えるにはどうしたらいいだろうかと考えたときに、「無知のベール」というフィクションが有効だろうというのです。
―― 「無知のベール」ですか。
柿埜 この「無知のベール」は少し不思議な発想ですが、自分が社会を設計する立場にあるとするわけです。皆が、社会ができる前の状況で集まって、どんな制度がいいだろうかと話し合うという場合を考えてみてください。
どういった社会がいいだろうかと考えるときに、自分がお金持ちに生まれてくると思ったら、お金持ちに有利な制度をつくってしまうだろう。自分が何人(なにじん)だということが分かっていたら、その人に有利な制度をつくるだろう。そういったことが当然、考えられるわけです。だけど、そうではなくて、いい制度をつくるためには「無知のベール」というものを被った状態で人間が考えるとしてみたらいいのではないか、というのです。
この「無知のベール」とは何か。「自分がどんな境遇で、どんな才能を持って生まれてくるかといったことは、全然分からない」「この社会に対する知識はあるのだけれども、自分がその中の誰に生まれるかは全然分からない」という状況で考える、というのが「無知のベール」の発想です。
そういった状況で考えたとしたら(このベールを被ったら)、自分はどの立場に生まれるかが分からなくなるわけです。そうして考えると、誰かに有利な制度や偏った制度を考えるのではなくて、皆が不偏不党の立場で考えることができる。
これと似たような発想は、実はカントもしています。こういった考え方をした上で、いい制度を考えたとしたら、それが正義にかなった制度だろうというわけです。
ロールズは、ではこの「無知のベール」のもとで皆はどうやって考えるだろうかということを考えたときに、「自分が一番恵まれない境遇に生まれた場合」を皆が考えるだろうと言います。だから、最悪の場合を考えて、その場合の生活が一番マシな生活であるような制度を選ぶはずだというわけです。
これは経済学では「マキシミン原理」といいます。「最悪な状況で一番マシなもの」を取る、ということです。そ...