●「政府の大きさはどれくらいが望ましいか」
―― 続いて見ていきますのが、リバタリアニズムの著作です。ただ、リバタリアニズムには非常に多様な潮流が存在しているということですね。
柿埜 そうなのです。リバタリアンとひと口にいっても、考え方にかなり差異があります。
ここに挙げている、ミーゼス、ハイエク、あるいはアイン・ランドやフリードマン、ノージックといった人たちが、「リバタリアン」といったときに代表的に思い浮かべられる人たちだと思いますが、彼らの考え方には非常に距離があります。
―― そこで先生がまとめてくださっているのが、こちらです。
例えば、政府の大きさについても、いろいろな見方があるということですね。
柿埜 リバタリアニズムは、実際には古典的自由主義を引き継いでいる発想なのですが、どういうレトリックを使って正当化するか、どのぐらい政府を認めるかというところに対して若干、差異があります。その点を紹介します。
まず、「政府の大きさはどれくらいが望ましいか」です。
古典的自由主義の立場では、「政府の権力は制限されなければいけない。市場の失敗に対処したり、再分配したりなどは支持する」という立場です。極端な再分配はダメだけれども、ある程度の再分配はいいという立場です。
この古典的自由主義の立場の方は、先ほどもお話ししたミーゼスやハイエク、それからミルトン・フリードマンです。そのハイエク、フリードマンの弟子であるブキャナンは、「公共選択」という、政府の行動にも経済学の原理を応用した研究(政府の失敗の研究)をした方です。ブキャナンの考え方も古典的自由主義になります。ある程度、政府を認めるわけですね。常識的な穏健な立場です。
これより急進的な立場が、「最小国家主義=ミナーキズム」といわれるものです。これは、ロバート・ノージック(後で取り上げます)というアメリカの哲学者、それからアメリカの小説家で哲学者のアイン・ランドなどが該当します。彼らが認めるのは、国防など最小限の機能だけです。ほとんど認めないわけですね。
―― ということは、市場への介入もしないということですか。
柿埜 基本的にやらないということです。
●政府を全く認めない「無政府資本主義」
柿埜 最小国家主義もかなり極端な考え方に見えるかもしれませんが、さらに急進的な立場は、「無政府資本主義」といわれるものです。これは、デイヴィッド・フリードマンやマレー・ロスバードといった人が入ります。政府を認めないという立場です。
デイヴィッド・フリードマンは、実はミルトン・フリードマンの息子です。自分の息子の考え方をどう思うかと聞かれたミルトン・フリードマンは、「いや、さすがに私はそこまでいかないよ」と言っています。(ということで)デイヴィッド・フリードマンはかなり過激な人です。
ロスバードは、ミーゼスの弟子です。ミーゼスも頑固で過激な人だったのですが、ロスバードはそれ以上に過激でエキセントリックで、私は正直ついていけないですね(笑)。
―― 政府を認めないとはどういうことなのですか。
柿埜 政府が存在しないほうが、つまり全部を市場に任せたほうが、むしろ人々は自由になって豊かになる、というのが彼らの立場です。
―― そうすると福祉も何もないということですか。
柿埜 慈善事業をやっていたほうがうまくいく、というわけです。
―― なるほど。
柿埜 彼らの主張としては、「19世紀の社会福祉がなかった時代は、代わりに慈善活動が非常に盛んだった。だから慈善活動が社会福祉を代替してくれるはずだ」というのです。
これは全く理にかなっていないかというと、一理はあります。どうして一理あるかというと、例えばカーネギーなどは、カーネギーホールや図書館などがそうですが、大規模な慈善を行っています。今のような優遇税制があったわけではなくても、実はアメリカの図書館や美術館の多くは19世紀の時代にできていますし、大学などもそうです。また、社会福祉の互助組合のようなものがすごく発達していたことは事実です。
―― 特にアメリカなどは教会の互助などが非常に発達していましたね。
柿埜 そうです。それらは「国家レベルの社会福祉が発展してから、むしろ衰退した」という研究が実際にあります。だから、全く理にかなってないわけではないのですが、私も含め大多数の人は「政府がないのは、少しヤバくないか」と考えます。
政府がない社会、無政府資本主義の社会とは、中世のアイスランドなどは確かにそうでした。ですが、国防がない状態は、どう考えても危ないし、司法もそれ(無政府)で行うのは(どうか…)。確かに(...