●政治的自由と経済的自由は結びついている
―― 続いて見ていきますのが、ミルトン・フリードマンの『資本主義と自由』です。これは1962年の本ですね。
柿埜 このフリードマンの『資本主義と自由』という本は、ほんとうに経済学の古典的な本です。ハイエクとフリードマンはよく一緒にされるのですが、ハイエクと違って、フリードマンはどちらかというと実証的な研究をハイエクよりも重視する人です。
ハイエクやミーゼスは、確かに結果的に自由主義的な社会、自由市場経済のほうが社会は豊かになることを指摘してはいるのですが、彼らはどちらかというと抽象的な理論で考える傾向があります。それに対してフリードマンは、“事実”をとても重視する人です。「実際の研究の結果、こうなっている」ということを重視するわけですね。この『資本主義と自由』という本も、まさにそういう観点で書かれている本です。
いわゆるリベラル(ニューリベラル)の方々は、「経済的な自由はたいして重要ではない。政治的な自由は大事だけれども、経済的な自由は大事ではない。むしろ制限したほうがいい」と考える傾向にあります。ですから、社会主義経済を行いながら個人の多様性を認めることが可能だと思っているわけです。ところがフリードマンは、「それは無理だ」ということを指摘します。
どういうことかというと、まずそもそも、移動の自由や職業選択の自由といった経済的自由は、コロナ禍では、なし崩し的に制限されてしまった傾向がありますが、そうした経済的自由の制限は、自由の制限には変わりはありません。こういった移動の自由や職業選択の自由がない社会は、やはり自由がない社会と呼ぶのが正しい。
それもその通りなのですが、政治的自由や精神の自由は、皆、抽象的なものだと思いがちなのですが、よくよく考えてみたらそんなことはありません。例えば、自分の考え方を人に知ってもらうためには、自由の頭の中だけで「この社会は間違っている」「こういう考え方ができる」などといろいろ考えることもできますが、具体的に何かを行うため(言論の自由を行使するため)には、物理的な基盤がなければ話にならないわけです。
例えば、印刷会社が全部国営で、紙は国営企業しか売っていないという社会では、政府に反対する思想を宣伝しようと思っても、国営会社は紙を売ってくれない(のでできない)ということがあり得るわけです。「そんなことは冗談でしょう」と思うかもしれませんが、最近のベネズエラは、反体制派の新聞に国営の印刷会社は紙を売りません。それから、紙を輸入している貿易の会社も(反体制派に)紙を売らない。だから皆、廃刊になっているのです。
インターネットも何でもそうですが、要するに経済的な自由が保障されていない社会――企業が全て国営の社会や、国が全部を厳しく監督しているような社会――は、実は表現の自由も言論の自由もあるわけがないのです。
つまり自由な社会を守るためには、政治的自由を守るためだけで考えても(ダメで)、経済的自由が存在しない社会は政治的自由もなくなってしまうのです。
ですから、これらは分離できると考えがちだけれども、政治的自由と経済的自由はしっかり結びついている。 経済的自由自体、(今お話しした通り)不可欠なものです。要するに、この二つを分けて、全く別のものだと考えてしまうのは間違いだ、というのがフリードマンの指摘です。
●政府の介入でもっと悪くなる場合も多い
柿埜 そうはいっても、政府が介入したほうがいいものはたくさんあるではないか、という考え方が当然あります。実はフリードマンは、誤解されがちですが、政府が介入したほうがいい場合があることは認めています。認めているのですが、実際に市場の失敗だと思われているものがほんとうにそうだろうかということを、彼はきちんと研究しているわけです。
これは、別の経済学の歴史の講義でお話ししたことですが、大恐慌は実は金融政策の失敗であり、FRBという中央銀行が、取り付けの発生を防がなかったことによって貨幣が激減したことがあり、そのために起こった現象でした。つまり、市場の失敗ではなく、政府が適切な政策を行わなかった結果として起こったものだということを、フリードマンは明らかにしているのです。
フリードマンはこの大恐慌の例や、独占を防ぐために鉄道を監督する機関を設立したら、この鉄道を監督する機関が鉄道のカルテルを崩れないようにするためにむしろ機能して、新しいトラックなど新規産業を妨害するようになってしまったという例を挙げています。(つまり)政府が悪いものを正そうとして介入した結果、もっと悪いものが生まれているということを、非常に説得力のある事例をいろいろと挙げながら指...