●「計画経済は全体主義に陥る」
―― 今、ご説明いただいたように、リバタリアニズムといっても、さまざまな面で幅がかなりあるということです。それぞれ代表的な著作を見ていきたいと思います。
まずは何回か名前が出たハイエクの『隷従への道』です。これは1944年の本ですね。
柿埜 ええ。これは第二次世界大戦中の本なのですが、この本を出版するのはとても難しかった。社会主義礼賛の時代だったので非常に難しかったという話があります。
ハイエクのこの本は、前にも少し説明していますけれども、政府が社会主義計画経済を行うと極めて大きな権力を握ってしまう。要するに計画経済は、何を生産して何をするかということを全部決める、所得分配なども決定するわけだから、政府に極端な権力が集まる。政府に極端な権力が集まると、そこに極端な権力が欲しいと思う野心家(どうしようもないスターリンやポルポトのような人間)が集まってくる。そういった人たちが権力を握ると、社会は独裁国家になってしまう。だから、民主主義や法の支配といったものは社会主義経済の下では維持されない、ということを指摘した本です。
「隷従への道」は、トクヴィルというフランスの自由主義の思想家が使った言葉です。政府が国民を隅から隅まで管理して、国民のためになることをしてあげるのだと言いながら、国民を完全に支配してしまうような社会が将来、訪れるのではないかということを危惧したトクヴィルの言葉なのです。ハイエクは「社会主義とはまさに、その隷従への道を辿ることになる」ということを指摘したのです。
彼が批判したのはナチスだったわけですが、これはソ連にも該当しているわけですね。その後に出てきた社会主義の国家はおしなべて皆、最終的には全体主義の独裁国家になっています。ベネズエラやニカラグアは、最初は「民主的な社会主義」などといっていましたけれども、最終的に落ちついた場所を見ると、どう考えてもファシズム的な独裁国家です。ソ連とナチスは違うと皆が思っていた中で、どちらも実は全体主義で一緒なのだということをハイエクは指摘したわけです。
●社会主義では新しい知恵を生かせない
柿埜 そういった社会主義に対して、市場経済では全体を組織する計画当局のようなものは要らないですよね。皆さん、買い物に行くときに、どこかの計画当局から「何を何個買う」「今日は卵を何個買う」などの命令は受け取らないし、配給されてもこないですね。自分で好きなものを買いますよね。つまり市場経済とは、誰かの命令で動いている経済ではなくて、皆が「価格が与える情報」をもとに「これを買おうか」「これを売ろうか」ということを決めている社会なのです。
市場経済とはつまり分権的に皆が意思決定をしています。一方、計画当局が持っていない知識を、計画経済では生かすことは絶対にできないわけですね。計画当局は万能ではないから国民のことを全て知っているわけではないし、全部の知識を集めているわけでは当然ありません。
例えば、ある起業家が新しいアイデアを思いついたときに、計画経済の場合は、その起業家が計画当局のところに行って、「これは素晴らしい発明なのです」と陳情することになるわけですけれども、画期的な発明にどれだけ価値があるかなど、誰も分からないのです。「インターネットはFAXほどの価値があるだろう」と言った経済学者もいましたが、FAXくらいの価値どころではないですよね。
要するに、新しいアイデアは、最初に思いついた人がいかにそれに素晴らしい可能性があるかということを言ったとしても、社会の大半の人は分からないことが多いのです。計画当局も分からないわけですね。
実際にソ連も、画期的な発明をした人たちを全然理解せずに弾圧したりすることもしばしばありました。そうすると、個々人が持っている知識が、市場経済とは違って社会主義経済では生かされないのです。
ところが市場経済では、個人が新しいアイデアを思いついたり、何かしようと思ったりしたら、その自分の創意工夫を実行できるわけです。そういう意味で市場経済は、社会の知識を一番効率的に利用する方法なのだということを、ハイエクは説いているわけですね。彼は、『隷従への道』以降にもいろいろな本を書いていて、今言った話は『個人主義と経済秩序』という、同じ頃に書かれた論文集の中で述べています。
●「社会の大部分は、人間の設計の産物ではない」
柿埜 ハイエクは、人々がどうして社会主義がいいと思うのかといえば、「人間が頭で考えてつくったものだから素晴らしいに違いない。市場経済は誰も設計している人がいないわけですね。だから、(社会主義は)何か素晴らしいものだと思ってしまうのだろう」と指摘して...