●プラザ合意の意義は、日本とアメリカで食い違う
日本から見ると、プラザ合意は間違いなく大きな転換点だと思います。ただ、同じことをアメリカの方から見ると、いくつもの転換点のうちの一つなのです。
どういうことか。例えばアジアだけについていえば、繰り返しになりますが、レーガン政権の時代に、いわゆるグローバル化戦略が始まりました。ただ、実際に始まったのは、レーガン政権の2期目です。
しかし国境を越えた資本移動は、レーガン政権の1期目、まだドナルド・リーガン氏が財務長官の時に円・ドル委員会をやり、ここで始まるのです。だから日本が資本自由化を始めるのは、円・ドル委員会以降です。
そもそも日本も自由化をやる気でした。それをやろうというので、円・ドル委員会を使って準備してやったのです。だから、自由化自体に特に難しいことはなかったけれども、始まりこそはここだった、ということを、当時の大蔵省の人たちが何人か書いています。その次がプラザ合意です。
●大きな流れは、アメリカのグローバル化戦略
これをもう少し大きな流れの中でいうと、例えば当時ヨーロッパはECで、ECの中でやはり資本移動の自由化が、同じ時期に始まります。そういう流れの中で、プラザ合意は起こります。
さらに通商の自由化です。アメリカとカナダのFTAは、このレーガン時代に始まります。ウルグアイ・ラウンドもレーガン時代のものです。そういう中、日本は日米経済摩擦で七転八倒していたなどといいますが、結局はこのウルグアイ・ラウンドがまとまることで、日米経済摩擦もこの流れに処理されるものになるのです。
最後に人権や民主化支援ですが、アジアの場合、1986年にフィリピンの革命があります。これでコリー(コラソン)・アキノ氏が大統領になりますが、これが一番大きくことで、その次が1987年の韓国の民主化です。全部、だいたい同時に起こります。
だいたい1984~1985年頃から、通貨でも通商でも人権でも民主化でも、全部始まるのです。ただ日本の場合には、民主化支援などということは関係ありませんでした。ウルグアイ・ラウンドも、「東京ラウンドが終わって、今度はウルグアイ・ラウンドが始まったね。それならやろう」というくらいの意識だったと思います。むしろ日米経済摩擦の方がはるかに忙しい。アメリカの方から見ると、これは全部(グローバル化戦略が)進んでいるということです。
●「面」で世界を捉えるアメリカ外交
もちろん、日本から見たとき、プラザ合意が大きい点だということは間違いないですし、それなりにしっかりした理由はありますが、同じことをアメリカから見ると、いろいろな手を打っているうちの一つなのです。
そうやって見ると、なかなか面白い。あらゆる舞台を見ながら、アメリカの人はゲームをしています。しかもそれをやっている人たちは、全部合わせてもおそらく100人はいません。財務省、国防省、国務省、NSCなど、国務次官補以上のキーになるプレイヤーやUSDR(通商代表部)を全部合わせても、おそらく60~70人くらいでやっているのだろうと思います。
実際に官僚の人たちに、資質的な違いがあるとは思えません。日本の官僚たちも、非常に優秀な人たちがいて、本当にいろいろなことをよく考えてやっていると思います。
知れば知るほど、やはり彼らもよく考えていたのだなと思う反面、ただやはり日本という国が持っている力と、アメリカという国が持っている力の差のようなものが、カバーする範囲の差や見方にかなり影響されていると感じます。
●「面」で見る宮澤、「バイ」で考える中曽根
日本の場合、どこからということははっきり言えないのですが、あえていえば、宮澤喜一氏が首相だった頃から、世界全体を見ながら政策が進められるようになったと思っています。
例えば、日本がアジアを見る見方は、アジアを一つの舞台として捉え、「こちらでこういうことをやると、そちらがどのようにこちらに抵触するか。どういう影響があるか」など、いわゆる「面」としての全体を見ながらいろいろな手を打っていくのは、宮澤氏ぐらいから始まっていると、私は思っています。
一方、中曽根康弘氏の場合、全部バイ(二国)なのです。中国とどうやるか、韓国とどうやるか。ASEANの場合は、ASEANを一つとして捉え、ASEANとどうやるか。あるいは豪州とどうやるか。このようにバイでやっていくので、あまり面としては見ていません。ところがアメリカは、最初から面で見ています。
例えば、1980年あたりは、ラテンアメリカの債務危機がずっとありました。そうすると、この債務危機を眺めながら、中国の改革・開放が成功すると、どういう影響があるかも考えているわけです。このあたりの目配りや見方が、日本とアメリカではずいぶん違うな...