●陰鬱な皇帝ティベリウスがますます引きこもった理由
ティベリウスが皇帝になったのは、紀元14年です。皇位についてからも、彼の陰鬱で暗い感じは変わりませんでした。最初のうちは彼もそれを気にして、なるべく人前に出て陽気に振る舞うことを心掛けていました。
ローマ皇帝にとって「人前に出る」ことはとても大事です。どういう場所かというと、戦車競争の試合や剣闘士の興行です。このような場には貴賓席が設けられていて、その席に座る皇帝もまた民衆にとっては見物対象の一つなのです。剣闘士興行や戦車競走を「見ている皇帝」を周りが見るわけですから、あまり熱中していない様子を見せると評判が良くなく、熱中すればするほど民衆の支持率が上がりました。
しかし、ティベリウスは、そういうことがもともと好きではなかったのかもしれません。何回かやっているうちに、だんだん地味で暗い性格の「地」が出てきてしまうわけです。そのため、民衆からの人気が下がっていき、それにつれ、剣闘士興行にもあまり顔を出さなくなっていきました。
●ゲルマニクスの活躍と死
ティベリウスの弟であるドルススとユリウス家に連なる妻の元に生まれたゲルマニクスは、彼とは対照的な人物として、以前から評判でした。軍事的に華やかな功績も挙げますが、非常に見栄えのいい長身のイケメンでもありました。しかも演説もうまい。そればかりか非常に明朗闊達な性格で、人に対して優しい態度を取ることでも知られています。
のちに第4代皇帝になるクラウディウスはゲルマニクスの弟ですが、周りから疎んじられる性格だったようです。実際に彼は親族からのいろいろないじめにも遭うのですが、そんな時に「兄のゲルマニクスだけが自分を温かく処遇してくれた」という記述が残っています。ゲルマニクスはそのぐらい、各方面で人気を博した人物でした。
そうすると、ティベリウスの内心は推して知るべし、です。表立ってはいえないけれども、次期皇帝が若くて人気のある人物であればあるほど、自分にとっては邪魔な存在に見えてきます。自分の地位がいつかは脅かされるのではないかという漠然とした予感を感じてしまうわけです。
しかし、ゲルマニクスは、ティベリウスが皇帝に就いてからも、さまざまな功績を挙げます。凱旋してきたゲルマニクスがそのままローマにとどまると、民衆の人気が一層高まるという懸念があったのかどうかは分かりませんが、彼は直ちに東方戦線へとティベリウスの命令で送り出されます。
●ティベリウス、カプリ島へ隠棲
東方戦線でも武勇の数々を挙げたゲルマニクスでしたが、19年、すなわちティベリウスが皇帝に就任して5年で亡くなってしまいます。ゲルマニクスの死を悲しむあまり、民衆たちは現代流にいえばストライキを起こしたり、フーリガンのように街中を荒らし回ったりしました。「神々はあまりに不公平だ。なぜ次期皇帝として嘱望されているゲルマニクスがこんな目に遭うのだ」というわけです。
民衆の疑いの目は、「ティベリウスが何か仕組んだのではないか」という一点に集中します。実際にゲルマニクスの死因については、その兆候から考えて毒殺の疑いもないではないというところがありました。もちろん確証はありませんし、誰も「毒殺されたのだ」とはいいませんが、同時代の人たちの間ではさまざまな噂が駆け巡りました。「ゲルマニクスは、きっと毒殺されたのだろう。それにはティベリウスが裏で糸を引いているのではないか」というものが主でした。
これでは、ティベリウスはやっていられません。いや、それ以上に、ますます自分の人気が下がっていく事態と直面しなければなりません。彼は、治世半ばにして、ローマから離れることを決意します。実際に宮廷内では、次期皇帝をめぐる思惑などで不可解な事件が起こり始めていました。人気のあったゲルマニクスの血を引く者たちへのさまざまな圧力です。権謀術数による策謀や密告が渦巻く中、不可解な死を迎える者さえありました。
おそらくティベリウスは、ゲルマニクスの殺害までを指示した事実はなかったと思います。しかし、彼はローマ、特にその中の宮廷社会に嫌気が差し、治世半ばでカプリ島へと隠棲するのです。
●カプリ島の「ヴィラ・ヨヴィス」
現在のカプリ島を訪れると、北東端の一番高いところに「ヴィラ・ヨヴィス」と呼ばれる遺跡があります。「ヨヴィス」は「ジュピターの」という意味ですから、「ジュピターのヴィラ」ということです。そのように呼ばれる場所へ、ティベリウスは住み着いたのです。
私もカプリ島を4回ほど訪れましたが、ヴィラ・ヨヴィスにたどり着くために、車の入れない、曲がりくねった坂道と階段が連続する道を1時間ほどかけて、ひたすら徒歩で上がっていくのです。
そこは陸とは孤...