●カエサルが絵を描き、オクタヴィアヌスが実現させた
アウグストゥスはさまざまな改革を行っていますが、彼がアウグストゥスの位に就いたのが紀元前27年ですから、実に41年間「第一人者」として皇帝の位にあり、その中で改革を進めていったのです。
一つは、ローマ市街の整備です。彼自身の言葉でいえば、「私は、レンガで造られた街を受け継いで、そして、大理石の街に変えた」となりますが、実際にそれが過言でないぐらい、さまざまな荘厳たる建物を建築しました。
もちろん実際にはカエサルの時代からそうした「企画」はあり、アウグストゥスがその「実現」のフェーズにいたということはあります。
カエサルは、ローマの街の改造もそうですが、元老院議員のあり方に関する改革案など、非常に大きなビジョンを持っていました。また、強大な権力を握りもしましたが、本当に実権を握っていた期間は5年しかありません。5年というと、現代の日本でいえば小泉内閣の時代ほどの長さです。もしも暗殺されなければ、もっと自分自身でいろいろなことができたでしょうが、彼にはその時間がありませんでした。
カエサルの持っていたプランを実現していったのがオクタウィアヌスでした。オクタウィアヌスがそういう器であるとカエサルがみなしていた点も、うまくバトンタッチができた要因ではないかと思います。
●アウグストゥスの権威はローマ市民全体を束ねるもの
このようにして、表向きは共和政と元老院を尊重し、実際にはローマ皇帝の位を確立して地中海全体を治めるような国家システムが出来上がっていきます。
それでも、トップに立つ人間はあくまでも「独裁者(デスポティックな人間)」ではないということを、彼は表立って強調しています。そして、自分は権威において優れているのだということをローマ市民に分からせるために、前半で申し上げた『Res gestae divi Augusti(神皇アウグストゥス業績録)』を起草しています。
この碑文は非常に珍しいものですが、ベルナルド・ベルトルッチ監督の『暗殺の森』という1970年の映画作品の中のシーンにも使われています。主人公が『Res gestae divi Augusti』の前をすたすた歩いていくシーンで、背景にラテン語の碑文が長々と連なるわけです。この時、映画評論家たちは「あれは一体どこだ?」と騒いだけれども分かりませんでした。しかし、われわれローマ史家からすれば、あれがスペイン広場のすぐ近くにある「アラ・パキス」の土台だというのは、一目瞭然なのです。
ともあれ、アウグストゥスは自分の権威を、ローマ市民全体を束ねるもの、あるいは第一人者の権威として強調しました。そのようにしたために、第2代皇帝ティベリウス以降へのバトンタッチも可能になったわけです。アウグストゥスが紀元14年に亡くなると、彼の3人目の妻リウィアの息子であるティベリウスが後を継ぐことになりました。
●ティベリウスとユリアの不幸な夫婦関係
アウグストゥスの生前、娘のユリアは二人目の夫として、彼の側近であったアグリッパに嫁し、たくさんの子どもをもうけていました。ただ、古代のことですから、幼いうちに亡くなってしまう例も多く、たくさんといっても、ある時期まで育つかどうかは難しいものでした。
ところが、アグリッパが紀元前12年に亡くなってしまうと、アウグストゥスは寡婦のユリアをティベリウスと結婚させます。当時ティベリウスには妻がいたのですが、二人を別れさせてまで、強制的に後継者を娘婿としたわけです。ティベリウスは先の妻が非常に好きだったらしく、泣く泣く離婚に踏み切ります。しかし、強制的な離婚の末の結婚がうまくいくわけもありません。
しかも、ユリアという女性は、見かけはそれなりに良かったようですが、非常に素行が悪いことで有名でした。幼い頃は行儀よくしつけられますが、大人になるに従って、いろいろな男性と関係を持っていると噂されるような存在だったのです。アウグストゥスが、「男子の後継者がいないことよりも、自分の娘の素行の悪さの方がよほどつらい」とこぼすほどでした。
ティベリウスは軍事的功績もあり、非常に堂々とした外見の持ち主ですが、性格的には陰鬱さが目立つ人物で、一言で言えば暗い、パッとしない性格だったようです。一方、ユリアの性格は非常に陽気に活発で、だからこそ周囲の男性を引きつける部分もあったのでしょう。年齢も少し離れていましたが、ともかく両者の性格がまったく合わず、二人は破局するというよりも、互いにほとんど寄り付かない始末でした。
●ティベリウス指名の裏に働いたリウィアの功績
結局、ユリアの素行の悪さに耐えかねたアウグストゥスは、自分の娘を島流しにしてしまいます。その頃のティベリウスとの仲は、正式なところは分かりませんが、実質的に...