●帝国の管理運営を軌道に乗せたティベリウス
ティベリウスの治世について別の見方をすると、宮廷内のトップの中の権力争いは熾烈だったものの、ローマ帝国全体から見れば、非常に順調に管理運営が進んでいたと言われています。おそらくアウグストゥス以後ティベリウスにかけて、官僚制の整備がかなり進んでいたのでしょう。だから、トップが権力争いに明け暮れていても、その下にいる官僚制の機構はかなりうまく機能していたものと思われます。
ティベリウスという人物に対する評価自体も、表向きには非常に暗いとか陰惨だとか、またゲルマニクス殺害疑惑のようなマイナス評価が多い一方で、軍事的な評価は高い。アウグストゥスの部下だった頃の軍事的功績はもとより、行政面でも管理運営能力が高く、システムをきちんとつくる面で非常に有能だったのではないかと評価されています。表面的には人気のない皇帝ではあったが、最近、軍事面から行政面にかけて、システムをうまく機能させていったという点で評価が高まっているのです。
カプリ島に隠棲していた紀元37年に、彼は亡くなります。死因については「殺されたのではないか」という言われ方もしていますが、確証はありません。宮廷で起こっていた陰惨な策謀がカプリ島にまで入り込んで、ティベリウスを暗殺ないし毒殺したのではないかと考える余地はありそうです。
●典型的な2代目の苦しみを味わったティベリウス
軍事的・行政的能力に秀でていたティベリウスは、典型的な2代目の苦しみを味わったと言えそうです。
初代は創業者ですから一からつくり上げていって、ある程度出来上がった時点で大体引退することになります。カエサルにいたっては、ほとんど最初の基盤となるアイディアを出したところで終わってしまったといえるでしょう。アウグストゥスは、そのアイディアを実現していきました。しかし、それが実際にうまく機能するかどうかの検証は、まさにティベリウスの時代にこそ必要だったのです。
そして、彼はそうした官僚機構をきちんと機能させました。一部には、ティベリウスが表舞台から消えたためにその権力を利用する人物はいましたが、たとえそうした人物がいたにせよ、その下にいた官僚たちは非常にうまく機能していたということです。
●カリグラからネロへ。ゲルマニクスゆかりの皇帝たち
ティベリウスの没後は、カリグラ、クラウディウス、ネロという皇帝が出てきます。私は、ここがローマ史の非常に面白いところだと思っています。
カリグラは、ゲルマニクスの息子です。本来ならゲルマニクスが亡くなった紀元19年の時点で殺されてもおかしくなかったのですが、当時はあまりに幼かったため、そういう目に遭わずに済みました。カリグラは在位4年で亡くなり、次の皇帝はゲルマニクスの弟であるクラウディウスが就きます。彼の後に出てくるのがネロです。彼はゲルマニクスの娘のアグリッピナの子ですから、ゲルマニクスの孫に当たります。
このように、ティベリウス以後のローマ皇帝を、ゲルマニクスの息子、弟、孫が継ぐことになるのですが、その背景には、ゲルマニクスがいかにローマ帝国の中で期待されていたかという事情があります。カリグラにせよ、ネロにせよ、結果的にはとんでもない皇帝として悪評を残しましたが、ローマ社会の中には彼らへの根強い期待感があったのです。
37年にティベリウスが亡くなってから68年にネロが亡くなるまでの間はわずかに31年ですが、その間に立った3人の皇帝が全員ゲルマニクスゆかりの人物だったということになります。このお話は、次回に譲りたいと思います。