●500年間の共和政から三頭政治へ-カエサルの台頭
紀元前1世紀にガイウス・ユリウス・カエサルが登場したことは、ローマ史だけではなく世界史の中でも、非常に大きな転換といっていい事件ではないかと思います。ローマは500年にわたって共和政を続けてきました。共和政というのは平たくいうと、独裁制を嫌う、1人の人に支配を委ねるのを非常に毛嫌いしたということです。そういうことを、ローマは500年にわたって、曲がりなりにも続けてきたわけです。
それが、領土が非常に大きくなり過ぎたこともあり、数百人の元老院の人たちを中心としたそれまでの共和政国家の体制では、対処できない事態になっていたのです。広い領土を管理しながら、さまざまな事件に対しては即座に判断しなければいけないことがたくさん出てきたということです。
結局、紀元前1世紀の半ば、60年頃に、クラッススとポンペイウスとカエサルが現れ、3人の間で第1回三頭政治という密約が交わされました。その中でカエサルが主導権を握り、単独の支配者になっていったのです。彼もローマ人のことは分かっていましたから、そんなに簡単に「自分が絶対的な権力者だ」ということを見せないようにしていたでしょう。
その後、カエサルは紀元前44年に終身独裁官になります。独裁官のことを「ディクタトール」といいますけれども、このディクタトールとは、ローマの国政の中で、非常事態に限って唯一の人に実権を委ねることを認める制度です。戦争が非常に長引いたり、膠着したりするようなときに、半年に限って、その権限が与えられました。これまで何人もの人たちが非常事態のときにその権限をもらいましたけれども、カエサルは、それを終身にわたってもらうということになったわけです。「なった」といいましたが、それは「そうなるように仕向けた」のかどうかは定かではありません。しかし、周りには特に共和政を信望する人たちがいたため、そのことが彼に対する決定的な反感につながっていきました。
紀元前44年3月15日、元老院議事堂に出掛けていったカエサルは、そこで暗殺されてしまいます。もちろん彼にはボディーガード、あるいはそういった役割の人もいたのでしょう。しかし、彼自身、非常に無防備なところがあったので、結局、暗殺されてしまったのです。
●アントニウスが首尾よく反カエサル派を糾弾
カエサルを殺した人たちは、カエサルに対する国民の反感は非常に強いだろうと考え、「われわれがカエサルを殺したからには、皆が支持してくれるだろう」と思っていました。彼らはある意味では意気揚々と「われわれはローマ国民に対して、大変な手柄を立てた」ということを言ったりしていたのです。
それに対して、当時カエサル派の第一人者であったマルクス・アントニウスは、即座に行動を起こします。アントニウスは、カエサルが殺された時に着ていた血の付いた衣を持っていき、共和政信望者が演説した後に「カエサルはなぜこんな目に遭わなければいけないのだ。国民のことを大変に思っていたではないか。彼は、国民のためにこれだけのものを残し、これだけのことを奉仕したではないか」と、滔々と述べて、そのことを思い起こさせました。民衆はアントニウスの演説に感激し、反カエサル派を逆に糾弾しました。そして、最終的にはローマから追い出してしまったのです。
●カエサルが後継者に指名していたオクタウィアヌス
その後に、アントニウスを筆頭とする親カエサル派とでもいう一派が主導権を握るわけです。ところが、カエサルの遺言状を開いてみると、後継者にはオクダビアヌスの名がありました。オクダビアヌスは、カエサルの姉の孫に当たるため、カエサルの甥ではなくその下の代に当たる人物で、カエサルとは世代的には二世代下です。そして、当時はまだ20歳にもなっておらず、19歳ほどだったはずですが、そのオクダビアヌスに相続権が行くことになったのです。
どうやらこの若いオクタウィアヌスは、カエサルに気に入られていたらしいのです。彼は12歳の時に彼の祖母に当たる人の葬送演説をしたそうですが、幼いながら非常に立派な演説をしたといいます。また、彼は最終的に長生きした割には病弱だったのですが、いざとなると非常に勇気を持って果敢に立ち向かう姿をいろいろな場所で見せていました。カエサルは彼のそういう姿を、どうも見ていたらしいのです。彼がいわゆる統領として上に立つ器だということを、カエサルは多分、見抜いていたのでしょう。それで、オクタウィアヌスを後継者に指名したのです。
けれども、オクタウィアヌスとアントニウスの間は15~16歳以上も年が離れていますから、アントニウスにとっては、ある意味で、面白くないわけです。自分が第一人者だと思っていたのに、そうではなかったからです。しかし、遺言状に...