●戦国合戦の「動員方法」とは?
―― 皆様、こんにちは。本日は作家の中村彰彦先生に、「戦国合戦の真実」というテーマでお話をいただきたいと思っております。先生、どうぞよろしくお願いします。
中村 どうぞよろしくお願いします。
―― 戦国の合戦というと、日本人の場合、大河ドラマ等々を含めて追体験する機会も多いのですが、意外と現代人には知られていなかったり、忘れられてしまっていることもあるのではないでしょうか。ぜひ今回は、実際に戦国の人たちがどのように戦っていたのかをお聴きできればと思っております。
そこで戦場の最初から最後までを追っていきたいと思うのですが、まず、戦争ということになると、(兵隊の)動員の話からになりますか。
中村 ええ、そうですね。ではまず兵隊をどう動員するかという話からします。戦国時代は兵農分離以前です。そして、領主は自分に仕えるある程度の侍集団を持っています。その侍たちは農民たちを監視するという役目の人たちです。
当時の武家集団は、いわゆる荘園が崩れたものを自分のものにしています。もともとは荘園のために働いていた者が小作になったり、大百姓になったり、そしてその土地を治めた人間が納税権を持っている。ローマでいうとかなり僭主制に近い形ですね。
しかし日本の場合は、とにかく農耕によって米を作る。その米が軍事力の元になるから、米作り、農耕の季節には絶対に農民たちは動員できないわけです。だから必ず晩秋になる。そして、稲の刈り入れが終わって、農閑期が来たとき、農民を100人につき何人出しなさいというような動員令を通告する。
刈り入れの最中や田植えの一番真っ盛りの時期などに動員令をかけたりすると、農民は嫌がります。嫌がって、どこかへ逃散してしまいますので、領国経営が成立しません。
●農民に配慮した上杉謙信の戦い
中村 一番いい例は上杉謙信です。彼は新潟、昔は越後ですけれども、その越後の大稲作地帯を領有しているわけですから、その農民たちが全ての稲刈りを終えた11月の末ぐらいに、三国峠を越えて関東に出てくるのです。
そして、前橋城を拠点として、江戸の大部分を領有していた小田原の北条氏と戦います。だから、前橋城というのは、もともとは「厩橋(うまやばし)城」というのです。厩に馬を入れておくわけですね。いちいち越後から雪の三国峠を越えて何百頭も馬を運んできたらかなりの労力になるので、馬は前橋で飼っておいて、そこで騎馬兵団を編成して戦うわけです。
しかしまた、雪がとけて田植えが近づくと、彼らは帰らなくてはいけません。小田原の北条氏としてはしばらくの間、息をひそめていれば、彼らはいずれ帰ってくれる。帰ったらまた現れて、取られたばかりのところを取り返すというように、エンドレスなモグラ叩きのような形の関東征伐になる。それが上杉謙信が行っていたことでした。
関東征伐は非常に体力を使う。寒い三国峠を上杉謙信は生涯に12回越えたという説と、14回越えたという説があります。少し余計な話ですが、上杉謙信は大酒飲みで、寒いからといって、丼のように大きな馬上盃(高台が高く握れるようになっている盃)でぐびぐび飲んでいた。それで飲み過ぎて卒中になってしまうのです。
●勝ちたいけれど、相手を殺したくない!?
中村 だから、動員する季節としては農閑期に限るということです。そうでなければ、兵農分離以前の農民を下級の兵隊として使うシステムが成り立たない。しかも、もしそこで大勝ちした場合に、相手の兵を全て殺害してしまったりすると、新しく敵の領国を奪っても、そこの田んぼを耕す人がいなくなってしまう。だから、あまり人を殺さないのです。
そのことが将棋にもよく現れています。日本の将棋は、取った「歩」をまた打てますね。歩というのは歩兵ですけれども、出世して「金」にもなれる。他に金、銀、桂馬なども、取った駒は打てる。つまり、虐殺しないで捕虜にすれば、「悪うございました」と言って、「今度はお味方します」となった場合にはそれを認めて、今までは敵対していたけれども、これからは共同の志を持って、ともに戦うということで一種の同盟関係に変わる。それが、日本の将棋には実によく現れているのです。
ですから、1000万人とか数百万人の大虐殺というのは、日本の戦争では起こらない。例えば、戊辰戦争は日本の国を東西2つに割ったような戦ですが、東軍の戦死者は1万人もいません。かなり厳しい戦のようですが、アメリカの南北戦争での約55万人とか、ナポレオン戦争での約200万人といった戦死者の数と比べれば、全体としては死者数が少ないことが日本の合戦の特徴なのです。日本史と西洋史、欧米史と比較すると、そうしたことがいえるのです。