●山岳戦から平場の合戦へ
中村 それでは、今度は合戦のところの話をしましょう。合戦の場合、平場(平らなところ)で戦う場合と山岳戦がありますが、日本人はもともと山岳戦が好きなのです。
賤ヶ岳の戦いなどは明らかに山岳戦で、山の中に小さな砦をたくさん造っておいて、それを小さな桟橋でつないで、兵を移動させながら、木の間隠れに弓矢を射ち合うという戦術です。日本人は足腰のしっかりした人が多いのか、そういう戦を好む傾向がありました。
―― 城も山城が多いですね。
中村 そうです。織田信長の安土城も一種の山城です。しかし、山城で行政を行うのかといえば、そうではありません。行政は京都へ出かけて行います。次の豊臣秀吉の時代になると、京都のほうに城を築くようになりますので、山城は次第に平城に変化していきます。それが時代の流れとなります。
峨々(がが)たる山の上に巨大な山城を造ると、物資を上げるのが大変ですから。攻めにくいことを目的にして奥深い山の上に造っているのですが、そこで生活する武士団の一族にとっては、人馬の交通に困る。そういったさまざまな時代の要請もあり、だんだん平城が多くなっていきます。平城が多くなると、
つまり、次第に平場の会戦が得意な武将のほうが、生き残る確率が高くなってくるのです。中学・高校の教科書に書かれている信長の鉄砲の三段撃ちなど、鉄砲の普及も戦術の変化に大きく影響しています。
―― 長篠の合戦でのお話ですね。
中村 鉄砲が有効なのは長篠のように見通しの利くところです。
―― 相当長い柵を取り入れたりしていますね。
中村 そうです。ですから、だんだん平場の合戦が多くなって、平場での戦い方が進歩していく。非常に面白いことに、平場で戦う場合、古代ギリシア、ローマ、マケドニアと日本の戦法はほとんど同じなのです。縦には並ばずに必ず横に長く並びます。縦に並ぶと正面の人間しか戦えないからです。後ろにいる強い兵士が前に出られないのは差し支えがある。横に並べたほうが一気に視界が開けて、数百ある槍や鉄砲を有効に使えるという発想なのです。
●戦は音で始まり、音で進行する
中村 日本人は不思議なもので、お互いに礼儀正しい。最初に神様に今日の運を祈りつつ、お互い敵にこれから開戦することを伝える。そのために鏑矢(かぶらや)を発射します。鏑矢は笛が仕込んである矢で、穴からヒューッという音が鳴る。お互いに天空に向けて鏑矢を射ち合うことによって、開戦の合図となるのです。
そのあとに、「進め」とほら貝をブオーと鳴らす。これを「押し貝」と言って、「押していけ」という意味合いになります。
そのあとに今度は、陣太鼓をドーンと打ち出す。陣太鼓係がドーンドーンとゆっくりやっている間、足軽たちはそれぞれ横に並んで、ゆっくりと行く。ドン、ドンと早調子になると、サッサッサッと行く。最後に、ドドドドドドッと乱れ打ちになると、全速力でかかれという突撃合図です。これは能楽と同じ、序・破・急の変化で、そのようにして戦っていきます。
そして、結果として乱戦になったあと、これ以上はもう危ない、勝ちに喜びすぎて、突入しては袋のねずみになってしまうということもある。そうなる前に、高いところから誰かが見ていて、引き揚げる合図をする。ただし、その場合、ほら貝や太鼓ではダメなのです。弾丸の音とか、悲鳴、絶叫、馬のいななきなどで騒音が非常に大きく、人間も興奮していますから、ほら貝とか太鼓の音では耳に入らないのです。だからそのときは、カンカンカンカンッと鉦(かね)を叩くのです。これは、キーンという音だからよく聞こえるのです。
―― よくお祭りで使われるような鉦ですね。
中村 そのように、合図というものが非常に重要になります。
●足軽が3種類に分かれる理由とは
中村 話を元に戻しますと、最初に鉄砲足軽と弓足軽が横一列になって行きます。足軽は、鉄砲足軽、弓足軽、槍足軽と3種類に分かれるのですが、弓足軽と鉄砲足軽は別の組ではありません。
―― 別ではないのですか?
中村 同じなのです。対になっている。例えば『信長公記』などによると、「鉄砲・弓足軽、槍足軽」と書いてあります。弓足軽と鉄砲足軽を区別していないのはおかしいと、昔から学者たちが批判していたのですが、この表記でいいわけです。弓と鉄砲足軽がワンセットであることが、「・」の表記で表されている。
当時、鉄砲は1発撃ったら、筒っぽを立てて、朔杖(かるか)で掃除して、もう1回弾を詰めて、火薬を流し込んで、よく朔杖で突き固めて、カラクリ部分の小皿に口火薬という別の火薬を盛って、火縄をジュッとつけて、すっと中に火が通るから、中に入っている火薬が爆発的に燃焼して、弾が出るわけです。1発撃った後に、この手順をエンド...