●落ち武者の一突きで逝った明智光秀の最期
―― 決着がついた後、これまでも話が出てきましたけれども、「落ち武者狩り」が行われたわけですね。
中村 正規の戦が終わる頃から、戦っている軍団とはまったく関係のない第三者が、周辺でうごめき始めることがあるわけです。戦国時代は兵農分離以前ですから、普通は農民として暮らしているけれども、落ち武者が来たときには隠し持っている武器でそれを討ち止め、物を奪ったり、武器や鎧を剥ぎ取ったり、それを叩き売ってお金にしたり、それこそ上﨟(じょうろう)を捕まえるかもしれない。どんな悪さをするかも分からない、そういう人たちが、ライオンの狩りが終わった後に、ハイエナの群れが現れるように戦場に出てくる。
その落ち武者狩りでやられてしまった例が、明智光秀です。竹槍でやられたと伝わっています。一揆のときに竹槍は武器になりますから、農民たちも竹槍の使い方をよく知っていて、先の方をよく焼いて、固めてあるのです。生の竹をスパンと斜めに切ったもので突こうすると、意外とクシャッとなるのですが、焼くことで余計な柔らかい繊維部分がなくなって、固いところだけ残るから、グッと入る。
しかも、槍や刀の使い方を知っている人間は、急所を知っているのです。光秀も腋の下あたりをやられている。鎧も脇のところは空いていますから、そこを狙ったのだと思います。光秀の死は、あえない最期という感じがしますね。
●負け戦の果てにあった宇喜多秀家の数奇な人生
それとはまったく対照的なのが宇喜多秀家で、関ヶ原の西軍の主力でした。西軍の中央で戦った福島正則率いる東軍最強の部隊と対峙しました。宇喜多も1万6500で西軍最大の部隊でした。
―― 宇喜多と福島ですね。
中村 押したり引いたりの大戦争をやったのですが、ついに、小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍が総崩れになります。そのとき、秀家は、関ヶ原の北にある伊吹山へとりあえず逃げ込んで、まず追跡を絶つ。そしてどこかで西に下っていけば京都、大坂へ行き着けると踏んだのでしょう。しかし、道を間違えて、だんだんと曲がって東の麓のほうへ向かっていくコースに行ってしまう。
その辺りは春日谷というのですけれども、昔は粕川谷といわれていました。伊吹山は石灰岩の山なので、白濁した水が流れてくるのを「粕が流れてくる」と表現したのでしょう。今は春日谷に字が変わっています。
その粕川谷の麓のほうに豪族の矢野五右衛門が住んでいた。姓名を持っているから大百姓ですね。その五右衛門は「どうも関ヶ原からわんわんたる音が響いてくるので、凄まじい合戦が起こっているのだろう。俺も習い覚えた自分の武芸がどの程度通じるものなのか試してみたい」と自分の部下たちを何人か連れて、粕川谷の下流から上流へ上がっていき、関ヶ原のほうに行こうとしたところで、ばったりと宇喜多一行に遭う。
最初はやっつけて、首を取って、勝った側の大将のところへ持っていって、ご褒美をもらう。あるいは、宇喜多側がいい鎧、いい刀やいい槍を持っているだろうから、それを奪ってしまおうとしたのでしょう。
その時、秀家の周りにはほんの数名しか部下がいなくなっていたのですが、非常に気品のある容貌をしているので、五右衛門は「これは名のあるお方に違いない」と思い、「名を名乗らせ給え」と呼びかけると、「俺は宇喜多八郎秀家、備前中納言」と答える。それで仰天してしまって、討ち止めるのは失礼にあたると考えたのです。そこで、「いや、大変お困りのようだから」と言って、自分の家まで連れていき、かくまってやる。
さらには、ある程度の経済的な援助もしてやって、最終的には、秀家の家来が大坂へ潜入する。大坂城の玉造口、三の丸のほうに宇喜多家の下屋敷があり、正室の豪姫が住んでいたため、連絡をつけて、どうしたらいいかと相談した。そして、軍資金を豪姫からもらって、また取って返して、今度は秀家を連れていき、船を仕立てて、鹿児島に逃がした。
そうして、今度は五右衛門も大坂まで行き、秀家を豪姫に送り届けました。豪姫は非常に感謝しました。日本の服飾史でいうと、当時、安土桃山時代というのは女性の小袖とか、絹織物が最高にゴージャスな時代で、今でいえば、1枚1000万円ほどするいい服がいっぱいあるわけです。豪姫は五右衛門に、御礼に小袖を3枚だったか差し上げた。その後の伝承では、五右衛門の妻、娘、孫の代まで着ても全然傷まなかったとも言われています。
ですから、明智光秀は一発で落ち武者狩りにやられてしまったのですが、宇喜多秀家の場合はあれだけの負け戦の中で、不思議に命を長らえて、落ち武者狩りに来た人が命の恩人となったわけですね。
さて、秀家はその後、島津家にも長くはいられないし、こうなったら琉球に渡って琉球...