●当時すでにNHKは徹底したコンプライアンスを行っていた
NHK記者によるインサイダー取引事件はとんでもない話です。本来、報道機関であるNHKは、報道の自由や取材の自由という権利に基いてニュース情報を集め、それを国民の知る権利に奉仕するために報道します。それが事もあろうに、記者が自分の小遣い稼ぎに報道の権利を使ったのです。これは当然、許しがたいことです。
しかも、インサイダー取引を行った3人の記者は、友達でも何でもありませんでした。つまり、たまたま報道情報システムを見ていた3人が、別々にインサイダー取引を行ったのです。そんな記者が3人もいたのか、ということで大問題になりました。NHKには批判が殺到し、会長の首がすっ飛んで、第三者委員会が設けられました。
第三者委員会には私も入っていたのですが、徹底的にいろいろな調査を行いました。世の中から、「NHKのコンプライアンスは一体どうなっているんだ」、「コンプライアンスになっとらん」と非難が集まったのは当然ですが、私たちもNHKのコンプライアンスを調査しました。コンプライアンスについて極めて不熱心、不真面目であったのではないかと考えていたからです。
ところが、当時、すでにNHKは徹底したコンプライアンスを行っていたのです。このインサイダー事件よりもさらに数年前、紅白歌合戦のプロデューサーが制作費を使い込むという事件が起きていました。その時も会長の首が飛ぶほどの大事件でした。これをきっかけにして、NHKは徹底したコンプライアンスに努めることにしたのです。
●NHKの考えるコンプライアンスは「モグラたたき」だった
しかし問題は、コンプライアンスの内容です。プロデューサーの制作費の使い込みに対しては、「国民の受信料を使い込んで許し難い」という非難が殺到しました。そこで、NHKは徹底してお金を締め上げて、不正を阻止しようとしたのです。400人体制で数カ月にわたって、過去7年分3,000万件の伝票が全てチェックし直され、不正がどんどん摘発されました。「どうしてこの時、タクシーを利用したのか」、「この鉛筆は何に使ったのか」と徹底的に締め上げ、不正も数多く見つかりました。
そして、費用の無駄遣いや不自然な使い方が多いということで、非常に徹底したコンプライアンス施策が取られたのです。例えば、取材に行くためのタクシー利用には、例外なく事前申請が必要になりました。もちろんその結果、急な事件が起きても、事前申請がないためにタクシーに乗れないという、無茶苦茶な状況になります。あるいは、出張費の申請には必ず領収書が必要になったため、地下鉄に1駅だけ乗った場合でも、精算のために領収書を一回一回もらわないといけなくなりました。こうした形で徹底したコンプライアンスが実施されたのです。
では、こうしたコンプライアンスがなされていながら、なぜインサイダー取引事件が起きてしまったのでしょうか。NHKのインサイダー取引事件が起きる1年ぐらい前に、日本経済新聞(日経新聞)でも同じような事件が起きていました。日経新聞には、例えば合併や株式分割、TOB(株式公開買付け)といった、いろいろな法定公告が載せられます。これは株価を左右する重要情報です。日経新聞の公告の部署には、その原稿が数日前に届くわけですが、これによって株価が上がることが分かってしまいます。それを使って日経新聞の社員がインサイダー取引を行ったのです。これはかなり大きな問題になり、当然NHKのニュースでも報道されました。
第三者委員会では、NHKのコンプライアンス担当者のみならず、多くの関係者に質問しました。「今回のインサイダー取引が起きる前に、日経新聞でインサイダー取引が起こったことを知っていますか。同じことがNHK内でも起きるのではないかと想像しませんでしたか」。NHK側の答えを聞いて驚きました。「こうした想定は全くしていなかった。3,000万件にも上るコンプライアンスの管理が忙しくて、それどころではなかった」というのです。
つまり、NHKの考えるコンプライアンスは、3,000万件をリスト化してそれを真面目にチェックするということだったのです。起きたことを後ろ向きに掘り返してゼロにしていくこと、すなわち「モグラたたき」です。
●リスクに対する想像力を働かせることが本来のリスク管理だ
しかし、本来のコンプライアンスはリスク管理でなければなりません。わが社で、明日、来週、来月、来年、新しい形の不祥事が起こるかもしれない。それは一体どんなものか、早めに手を打って予防するためにはどうすべきか。リスクに対するアンテナを立てて、想像力を働かせること、これこそが本来のリスク管理、コンプライアンスの本質のはずです。ところが、NHKは3,000万件のモグラたたきをして、不正をゼロにするという方向に向かいました...