●「損失飛ばし商品」に日本企業は飛び付いた
成功例の2つ目は、B社の事件です。これも私自身が担当した事件ですので、匿名化させてください。1990年代のバブルの頃、日本のメーカーの多くは財テクに走りました。地道に物を作って利益を上げるよりは、訳の分からない証券取引に手を出して、一発でぼろもうけをしようという発想がありました。メーカーはこぞって、本業そっちのけで財テクに走ったわけです。
ところが、バブルがはじけると、その財テクは全部損失に変わってしまいました。しかも100億円単位の損失です。そうすれば、損失を公表するかどうか、財務諸表に出すか出さないかという問題が当然出てきました。
2000年ごろ、いくつかの外資系の証券会社が「損失飛ばし商品」を売り出しました。100億円の損があったとしても、タックスヘイブンであるケイマン諸島やバミューダ諸島のSPC(特別目的会社)を使って、デリバティブ取引を行い、ぐるぐる回すとあら不思議、損が消えてしまう、というのがこうした商品の名目でした。もちろん、損は消えません。ぐるぐる回すと他のところに損が移るので、会計上書かなくても済むというだけの話です。要するに、ごまかしの商品です。最終的に、飛ばした損失はちゃんと自分のところに戻ってくるわけですから、損を一時的に見えなくするだけにすぎません。しかし、こうした「損失飛ばし商品」に日本企業は飛び付きました。
●損失の開示に一番反対したのが監査法人だった
B社の事件もこれに関係します。B社は、こうした商品で飛ばしている損失を、200億円も抱えていました。そこで、私のところに相談に来たわけです。とんでもない話です。隠していたら200億円の損が消えるはずもなく、どんどん利息が付いて、数年後にはもっと大きくなって戻ってきます。当然、公表して会計処理するしかないというのが、私の意見でした。しかしB社は、そうすれば株価が暴落すると反対します。
しかも、2000年前後当時の会計基準は時価主義に移っておらず、理屈を付ければ何とかへ理屈が立つというような、非常にグレーな処理が可能でした。監査法人もそれで構わないというような時代でした。B社についていえば、損失の開示に一番反対したのが監査法人です。自分たちがお墨付きを与えたのに、今さらふたを開けられるなんてたまったものではない、というわけです。私に相談を持ちかけた役員は、損失を公表したいと言いましたが、監査法人が財務部門と組んで徹底的に抵抗します。社内では大論争が巻き起こりました。
●自分たちは何をやりたかったのかを考え、会長が決断を下した
私もいろんな意見書を出して戦っていたのですが、やはり最終的には創業者である会長が決断しました。B社は上場会社ですが、オーナー経営です。会長は次のようなことを言いました。
「國廣さんの言うことも分かる。その通りだと思う。会計上公表すべきかどうか、そこまで私には難しいことは分からない。しかし、この問題の本質は難しい会計論争ではなく、損を公表すべきかどうかということだろう。これを隠すのは、やっぱり駄目だ。どんな会計上の理屈があるのかは知らないが、損は必ず戻ってくるものだ。私自身、町工場から始めて、数十年かけてこの企業を作り上げてきた。ところがバブルの時に、自分も目が狂ってしまった。自分がOKを出してもうけようとしたのが、今200億円の損になってしまったのだろう。今こそ、町工場を創業したときの気持ちに戻らなければいけない。責任は私が取るから、損失を正直に出して、資本市場に本当のことを言おう」
会長がこのように決断したのです。細かい会計規則の何条何項によれば、公表すべきだとか公表すべきでないとか、あるいはSPCがどうだと、そうした細かい議論ではなく、本質が大事です。本質は損を隠すか公にするかということです。B社の件で最も重要なポイントは、会社を設立した時に自分たちは何をやりたかったのかというところに戻って、会長が公表する決断を下したというところでした。やはりトップだからこそ決断できたのではないのかと思います。
●ちゃんとしたストーリーを持って立ち向かうことが重要だ
なお、これにも後日談があります。損失を公表すればどうなるか。真面目に公表した立派な会社だからといって、株価は上がりません。むしろ株価は、ずどんと落ちてしまいました。しかし、非常に面白かったのは、公表した1週間後に出たアナリストレポートです。実は、B社が何か抱えているのではないかということは、すでに市場ではささやかれていました。そんな会社はいくらでもありますが、B社は市場でささやかれていた悪材料を出し尽くした、というレポートが出たのです。すると、ずどんと落ちた株価がV字回復をして、数週間後には損失公表前をはるかに上回る株価になった...