●間口を広げたマーケティング戦略が必要
―― 日本のマーケティングがうまくいっていない問題点はどこにあるのでしょうか。
真山 本来マーケティングは、関心を持っていない層に振り向いてもらうために行うものですが、現状ではすでに客となり得る可能性を持っている層に打ち出すことに力を入れている。潜在的なファンだから、実は広告1本で動かすことができます。そうした広告を打つことしかしていないから、新たなファンを獲得するために本来伝えるべき多くの人に届けることができていません。つまり、関係者が皆「そこは客じゃないから」と言って広告を打つのを止めている。今の日本のマーケティングがうまくいっていないのは、全部これが原因だと思います。
―― 昭和から平成にかけて、緩かった広告やマーケティングの在り方ががんじがらめになってきたとみて良いのでしょうか。
真山 そうですね。昭和が緩かったのはパイが大きかったからでしょう。やはり1年齢あたり何100万人も存在していたというのは効果が出やすかったと思います。逆にいえば現在、「パイを取り合っている」と考える人がいますが、ピンポイントで勝負した方が勝てると思うのは間違いです。結局パーセンテージを考えると、100万分の1パーセントと1000万人の1パーセントなら、当たり前ですが1000万人の1パーセントの方が良いわけです。それを分かっていないといけません。
後はやはり、「広告料はドブに捨てるもの」だという発想がないということも関係しています。費用対効果を考えようとしがちですが、効果があるのであれば最初からそこだけやれば良いわけです。しかし広告とは、「やっても駄目かもしれないがやってみよう」というケースのためにあり、そうした考えがないのでうまくいかないのだろうと思います。
例えば、音楽業界は良くできています。新しいCDを出すとします。そうすると、仮に3週目の1週間が勝負と決めて、その週に出る雑誌全てにそのアーティストを出すのです。波状攻撃で幅広く行うことによって爆発的に売れたりします。一方、出版社にこのことを言っても、そんなことはできない。できないのではなく、したことがないので、そのことが分かっていないということです。私はフリーライター時代、プロモーションの仕事に関わることが多かったので、この辺の事情がよく分かります。
―― 中部読売新聞にいた頃ですか。
真山 いえ、その後フリーとなった頃のことです。その時はずっと記事広告の仕事をしていました。当時、関西は記事広告が全面で出るぐらい広告料が安かったのです。最初、純広告を打って駄目なものを、最後に切り札として記事広告を打っていくのです。最後のお金で記事広告をやるのですから、そこまでであまり成果が出ていなかったわけですが、私がお手伝いしたものに関しては、割といつも結果が良かったのです。
それはなぜかというと、ファンに当てた純広告で効果がないのですから、「それでは別のところを探しましょう」というスタンスで記事広告を作成すると売れたりするのです。記事広告を読む人は純広告で対象とする人と性質が違うという発想が、あまり浸透していないのです。
●「見なきゃ損だ」と煽るからこそ、記事広告は効力がある
真山 記事広告がなぜ効果があるかというと、読んだ人が「私はこの原稿を読んで刺激されたから、このコンサート(舞台)を選んで、見に行く」という能動的な形だからです。ですからその内容が、いかにその演目が「すごい」かを訴えるだけでは読み手に響かない。「すごい」というだけなら純広告の方が良いでしょう。むしろ「すごい」と1行も書かずに、ただひたすら、「これは見なきゃ駄目ですよ、知的なあなたなら分かるでしょ」というふうに煽るのです。
大阪は東京と違って、お客さんがすごく渋い。例えば、シルク・ドゥ・ソレイユをロングでやる場合、大阪での最初の1カ月は、かなり興行がきついのです。それで1カ月後に記事広告が投入されることが多いのです。東京では、事前の評判を得て皆が「すごい」と言ったら「俺が最初に見たい」という考えで(すぐに)チケットが奪い合うように売れる傾向が強い。それに対して、大阪は「え?行ったん、自分。面白かった?」「めちゃ面白いで」となって初めて、「ほな行くわ」となる。つまり1カ月ぐらいたってからの記事広告は有効で、突然爆発的に売れることがある。
ですから、記事広告が投入された際には、「見なきゃ損だ」ということをどう書くかをずっと考えてやってきました。
●文字離れして本から遠のいているわけではない
―― “文字離れ”で書店が少なくなっていっていると思われますか。
真山 そう思われがちですが、今でも人がたくさんの文字を読んでいるのは間違いありません。しかもかなりの文字量です。つまり、そう...