●「天平」のイメージが強い奈良時代
奈良時代は、天平時代ともいわれます。「天平」のイメージが強いのは、元号が天平であることから形作られたもので、この時代の文化を天平文化といいます。
そもそも天平という元号は、729年に祥瑞によって定められます。これは、「天王、平ヲ貴ビ、百年ヲ知ラシメス」と、非常に立派な天皇が長い間の平和を実現したという意味の文章が亀の背中の甲羅に表示されていたということで、それを世にも珍しいこととして天平の元号を定めるわけです。
その後、天平は元号が4文字になって続きます。「天平感宝」は、陸奥国から金が献上された慶事を祝う元号です。次の「天平勝宝」は、聖武天皇が上皇になった後、その娘である孝謙天皇の即位を契機に改元されました。「天平宝字」も祥瑞であり、蚕が産み付けた卵に「宝」の字が現れたので元号を改めるのですが、この時に淳仁天皇が即位しています。次に「天平神護」は、藤原仲麻呂の乱を鎮圧して、孝謙太上天皇が重祚して称徳天皇になるのを契機としています。「神護景雲」は祥瑞です。
このように、天平時代は「天平感宝」以降4文字の元号が続いているわけですが、そのほとんどに「天平」が付いているので天平時代と呼びならわされています。
なぜ4文字の元号を使ったかというと、当時の皇后である光明皇后が、中国で武周朝を立てた則天武后の使った4文字元号に倣ったからです。ちなみに、中国の元号は「天冊万歳」「万歳登封」「万歳通天」です。
この4文字の元号は、称徳天皇が崩御して光仁天皇が即位された時に改められ、「宝亀」という2文字の元号が定められます。これも祥瑞です。次に伊勢神宮に美雲が現れたということで「天応」と、やはり祥瑞による改元を行います。
先述したように、奈良時代は天平という元号のイメージが強く、この時代の文化も天平と呼ぶということです。
●元号らしい元号が定着した平安時代
平安時代に入ると、その前期は奈良時代同様に政争の時代で、非常に多くの政変があります。桓武天皇は延暦13(794)年に平安京に遷都します。そして、清和天皇の時に代始めの改元として「貞観」の元号が用いられますが、天変地異の相次ぐ時代として今でも「貞観の大地震」などが引き合いに出されることもあります。
平安時代の中期には摂関政治が始まります。藤原氏が摂政関白を独占する形で政治を代行することになるのです。この頃は儀式が重んじられた時代であり、元号の決定の仕方が定着していきます。
平安後期は天皇の父親が「院(上皇)」として実権を振るう院政時代で、何か変事が起こるとすぐ改元することになります。治暦5(1069)年から文治元(1185)年までの116年間に43もの改元がありますから、一つの元号は2~3年で改められたことになります。
平安時代の元号の特徴を考えてみます。平安時代は400年近く続く非常に長い時代で、元号も90ほどあるので、なかなか特徴を見いだすことが難しい。しかし、飛鳥・奈良時代とはずいぶん違っており、現在「元号」と言われて思い浮かぶような、元号らしい元号が定められるようになった時代といえます。
飛鳥・奈良時代(特に初期)は、祥瑞によって元号がつくられることが特に多く、それを象徴する言葉でしたが、この時代には漢籍から元号の漢字が選ばれるようになりました。強いて言えば、「天」の字で始まる元号がよく使われています。他には「仁」「永」「長」「延」の字が好まれました。特に「永」「長」「延」は、「非常に長く続く」ということを祈念して選ばれた文字ではないかと思われています。
●平安時代につくられた元号の制定手続き
平安時代につくられた元号の制定手続きはどうなっていたかを見ていきます。
大臣が天皇の命を受けて、儀式や典礼を担当する式部省の次官である「式部大輔」と学問を司る「文章博士」などの人たちに元号案の「勘申」を命じます。勘申は、考えて意見を言上することなので、式部大輔や文章博士が下案をつくるわけです。
このような新しい元号を考案する者を「勘申者」といいます。四書五経などの中国の文献を調べ、吉兆の漢字を組み合わせて元号の候補を考案します。
その報告文を「勘文」といいます。勘文が天皇に奏上された後、左右大臣・大納言・中納言・参議らで構成される公卿会議(「陣儀」)で審議が行われます。そのときに出た意見ややりとりを「難陳」といいます。
公卿会議で元号案が決定されると、再び天皇に奏上されます。天皇が決定した元号を詔書によって公布すると、国民全体に元号が行き渡ることになるわけです。