●江戸時代の元号は幕府が主導
江戸時代になると、幕府の援助によって朝廷の方も安定します。
「寛永」の元号は20年続き、後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇と、3代の天皇の元号となりました。代始めの改元がこの間、行われなかった珍しい例でもあるわけです。明正天皇は、後水尾天皇と徳川秀忠の娘の和子との間に生まれた皇女です。この時代には後水尾上皇の院政が行われていたことから、改元は必要がないと考えられたらしく、改元の議が行われないことになったようです。
江戸時代は基本的に武家の時代なので、こういう事件も起こります。正徳2(1712)年、6代将軍家宣が死去した折のこと。基本的に元号を選ぶ役についていた林大学頭信篤より老中への意見具申がありました。(将軍死去という)凶事は元号に「正」の字を用いたためなので、直ちに改めるようとのことでした。
家宣の侍講(儒学の教師)だった新井白石は、「元号の字によって凶事が起こることを心配するなら、元号のなかった古代のように、元号などなくした方が良い」と書いています。つまり、元号は朝廷の慣習なので、武家としてはなくてもいいと考える人がいたということです。
江戸時代は、林大学頭が幕府における儒学教育の全ての面を担当し、改元における勘申者も務めていました。朝廷よりも幕府の事情で改元が行われることが多い点が特徴です。最終的には朝廷が決めるのですが、朝廷に主導権はありません。幕府が主導権を取って改元の議を起こし、改元案を立て、朝廷に認めさせる時代になっていたわけです。
●「明治」の元号はくじで決まった!?
江戸時代が終わり、近代になると元号が「一世一元」になったのはよく知られています。その過程を確認しましょう。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)に孝明天皇が崩御され、翌3年1月9日(1867年2月13日)に睦仁親王が践祚されて、明治天皇になります。明治天皇は、慶応4年1月15日(1868年2月8日)に元服し、8月27日に即位の礼を行います。そして、9月8日に元号を「明治」に改め、「一世一元の詔」を出すわけです。
なぜ一世一元(一人の天皇に一つの元号)になったのかというと、中国の明の政策にならったもので、元号によって皇帝や天皇の支配を示すように変えたのです。
詔には「慶応4年を改めて明治元年と為す」とさ...