●「負い目」が人を向上させる
執行 最近読んだ本で、『メリトクラシー』というものがあります。英国人の社会学者、マイケル・ヤングが書いた本です。この『メリトクラシー』に、ビクトリア朝がどうして素晴らしかったかが書いてありました。
僕はそれを読んだとき、長年いっていたことがズドーンと腹に落ちました。これが今の日本人に一番足らないものなのです。「あの時代はすべての人が、社会学的に負い目を持っていた」というのです。だから人間というのは、絶えず負い目がなければいけない。そうしたことが『メリトクラシー』に書いてあります。
「負い目」とはどういうことか。当時は貴族主義が衰えてきて、キリスト教信仰も衰えてきて、民主主義が台頭してきました。貧乏人もある程度、学校を出れば、金持ちにもなれる時代が、ちょうどビクトリア朝といわれる19世紀です。
そして貴族は、「自分たちが貴族だ」ということに、負い目を持っていた。「こんな地位をタダでもらっていいのか」と。ところが18世紀までは、貴族は貴族であることに、誰も負い目などありませんでした。そんなの当たり前のことで、自分が偉いのは当たり前だと思うのが貴族だったのです。
これも『メリトクラシー』の話ですが、一方で、キリスト教信仰も、確かに衰えてきた。しかし19世紀にはまだ、キリスト教信仰が衰えたことに対して、イギリス人全員が罪の意識を持っていました。先祖や自分の親や祖父を見ると、すごいキリスト教信仰を持っていたが、それが自分たちにはない、と。
また、貧乏人は一生懸命努力して学校を出れば、ある程度偉くなった。しかし当時のイギリスでは、今いった貴族のような存在がいて、家柄のいい人に対して強烈なコンプレックスを持っていたといいます。
そうやって見ていくと、貴族も貧乏人もコンプレックスを持っている。キリスト教の信仰がなくなったことに対しても罪の意識を持っている。要するに全国民がみんな枯渇感を持っていたのです。「人間として俺はダメだ」「もっと良くならなきゃダメだ」という思いです。
―― なるほど、枯渇感を持っているのですね。
執行 この時代を『メリトクラシー』でマイケル・ヤングは、「イギリス人が一番活力を持っていた時代だ」と書いているのです。「活力を持っていた時代は、全員が負い目がある時代だ」ということに、僕は脳天をかち割られたような感動を受けました。僕はこのことを今、いろいろなところでしゃべっています。僕がずっと疑問に思っていたことですから。
戦後の日本は、みんなから負い目を「取る」ことばかりやりました。「そんなに負い目に思うことないんだよ」「大丈夫なんだから」などです。これが、どんどん人間から誇りとか、やる気とか、人間として向上するための枯渇感を奪っているということです。これをマイケル・ヤングが社会学的にフィールド調査をやって、ある程度証明しているので、すごく面白いのです。
―― 面白いですね。
執行 この理論には、僕もびっくりしました。日本も確かに、いろいろなものが良くなってきました。良くなれば良くなるほど、とにかく人間はある意味でダメになります。これは、なかなかわかりませんよね。でも、『メリトクラシー』を読んで、イギリス人の動きを通じてわかりました。イギリスのほうが、やはり日本より一回転早いのです。「一番良かった時代は、全員に負い目があった時代」というのは、人間存在の一番深いものをぶち込まれた感じがします。
―― それと明治日本が同じなのですね。
執行 明治がそう。だから明治は偶然、一緒なのです。明治時代も19世紀で、イギリスと歴史的には同じで、みんな枯渇感があった。貧乏人もそう。そして、まだまだうちの祖父ぐらいまでの世代は、自分より「家」のいい人にものすごいコンプレックスを持っていました。今ではもう、わからないでしょう。なぜ、そんなことでそんなに悩むのか。
結局、明治の日本は、ビクトリア朝のイギリスとちょうど一緒なのです。だから19世紀では世界で一番、(イギリスと日本が)活力があったのです。
●19世紀アメリカ人は「自分がダメだ」と考えた
あと近い国は、アメリカです。アメリカも19世紀は、すごい活力がありました。調べると、一つ一つわかります。やはりキリスト教も衰えてきて、自分の先代と比べて、みんな悩んでいた。文学を読んでも、キリスト教信仰が衰えたことに対する枯渇感しかありません。あの1930年ぐらいの、フォークナーらの文学です。
しかし、アメリカがたいした国だと思うのは、エリック・ホッファーのような哲学者がいることです。彼はけっこう有名な人で、いろいろなところで今、出てきています。「沖仲士の哲学者」といわれ、肉体労働者なのにものすごい読書家で、独学で、ものすごい世界的な...