●どうして先人たちと「魂が通じる」ようになるのか
執行 僕のコレクションは基本的に、僕の信念と深く関わっています。僕は「人間の魂を本当に伝えられるものは、残っている芸術作品だ」という信念を持っています。世界中に残っている芸術作品を見てきて、いつの時代も真に才能がある人は、芸術作品で歴史や民族の魂といったものを全部呼び起こす力を持っていると思うからです。
だから僕はお金がある程度できるようになって、僕が「燃えた」と思う魂の痕跡を、後世のためにそのままいい形で保存したい、そうした思いで集めています。
だから僕のコレクションは、自分自身の経験に基づいたものです。僕自体は古代が好きで、小学校の頃から『万葉集』をずっと読んできました。『万葉集』は歌だから、芸術です。そこで僕が自慢とするところは、辞書を一回も引いていないことです。つまり学問として読んだことがない。昔の古代人が書いた、あの頃の日本語をそのまま受け入れようと思って、ずっと読んできました。
そうして子どものときからずっと読んできて、大人になったある時期に、自分でも驚くことが起こりました。30歳になる少し前に、古代人と本当に会話ができるようになったのです。ずっとやっているうちに、行間が読めるようになった。僕はそのことに愕然としました。大伴家持とか大伴旅人とか柿本人麻呂といった人たちが、何で書いたのか、どういう生活をしていたのか、もう手に取るようにわかるようになったのです。
それは僕が辞書も引かないで、間違った形でも読んでいたからです。僕は間違いだと思っています。間違いだけれども、学問的ではなくて、芸術として触れていると「魂が通じる」ということが、僕は実感としてわかりました。そういう体験を将来の日本人にもしてほしい。
絵でも書でも、本当に誰か好きになってくれる人がいたら、たとえば山岡鉄舟の書を睨みつけていると、山岡鉄舟という明治維新で燃えた一人の武士の魂が、絶対乗り移ると僕は思っています。そうしてほしいというのが、僕が集めてきている理由です。
――なるほど。魂が乗り移るんですね。
執行 本当のものは乗り移ります。僕はこれを『万葉集』で体験しました。そして乗り移る力があるものを僕は「呪物」と呼んでいます。「神に捧げる」という意味の呪物です。呪物として「芸術の力」だと僕は思っています。逆に乗り移る力がないものは、芸術ではなくただの「物」です。芸術と呼ばれるものは、乗り移る力がある。だから怖いのです、悪いものだと。
僕は反対に、「日本人の魂」が乗り移るものを集めているのです。僕が集めた芸術作品を好きになってもらい、ずっと眺める。写真でもいいから眺めていると、その人の日本人としての魂が乗り移ってくる。そう信ずるものを集めています。
その代表が、絵だと安田靫彦、書だと山岡鉄舟と白隠です。禅だと白隠。山岡鉄舟は最後は宮内庁の役人になりましたが、武士では山岡鉄舟の書が一番素晴らしい。彼の書と真剣に対峙する、あたかも会話するように対峙すると、書の魂が乗り移ってくるのです。そうすると日本人の場合、必ず武士道の精神が甦ってきます。武士道を素晴らしいものと思うように必ずなります。最低でも、そうなる。
●命がけで責任を果たす男の勇気に感動する
執行 僕は日本刀も好きで集めていますが、日本刀の前に飾って似合う日本人の書は山岡鉄舟だけです。それ以外は、日本刀が合いません。お坊さんの字などは、素晴らしくても、日本刀を拒絶します。そのくらい芸術というのはわかりやすいし、すごい力があるのです。山岡鉄舟は無刀流という日本最後の剣術の流派を開き、春風館という道場も持っていた剣豪です。だから彼の書の前に置くと、日本刀がすごみを増すのです。日本刀の魂が、中から浮き出してくる。そういう力がある書なのです。
――山岡鉄舟がいなければ、勝と西郷の会談はありませんでした。江戸城無血開城もなかった。そして進んでくる官軍の中に突っ込み、片っ端から突破していくわけですよね。すごいですよね。
執行 そうです。これが勇気です。あとからいうのは簡単ですが、あの当時の状況だったら、会談はするけれども責任者が誰か1人切腹するのが当たり前でした。「わかった。じゃあ会談はする」となれば、要は折れるわけですから、武士の場合、「代わりに誰が責任を取って切腹するか」という話になります。その切腹の順番が自分に来てもいいという覚悟がなければ、あの話はできないのです。だから山岡鉄舟のものすごい勇気を感じるのです。
幕末までの日本は、今と違って、政治家と政治家が何かで折り合いをつけます。でも政治は、必ず犠牲者が出るじゃないですか。その犠牲者の手前、誰かが責任を取るのです。このとき、話を持ってきた人が責任を取るのが普...