●西洋も死んでいる
―― 最後は、落ちるまで気づかないということですね。
執行 それは、そうでしょうね。落ちても気がつかないですよ。もう、今の日本は大重症です。落ちて気がつくのは、ちょっと前までです。僕は日本の病根は、もっともっと深いと思っています。
落ちたら気がつくためには、自己認識力が残っていなければダメです。今の日本人は、わりと自己認識力がなくなっていると僕は思っています。今の若い人を見ると、生活や国のあり方などに、けっこう満足しています。この状態で満足しているということは、自己認識力が崩壊したのだと思うのです。したがってダメになってもわかりません。
―― なるほど、崩壊しているとダメになってもわからない。
執行 僕はそう思っています。だから、これからもっと貧しくなっても「まあ、しようがないんじゃないの」と、日本国民はいうと思っています。
―― 貧しくなっても、わからない。
執行「僕は大丈夫」と思っている。大丈夫というとおかしいですが、「気がつかない」。「社会とは、こうなんだ」と思ってしまう。そういう段階に来ています。
―― 確かに、20代の若者で現状に満足している人の割合は8割だと、経済同友会代表幹事だった小林喜光さんが、2019年1月30日の『朝日新聞』インタビューで嘆いておられます(※記事引用:「内閣府の2018年6月の調査でも74・7%の国民が今に満足していると答えています。18~29歳では83・2%ですよ。心地よい、ゆでガエル状態なんでしょう」)。
執行 人間というのは、生存に満足したら、それで終わりですから。やはり向上心や枯渇感が必要です。これはいいとか悪いではなく、やはり革命が必要なのです。
ちょうど今読んでいる本に、ダグラス・マレーというイギリスのジャーナリストが書いたものがあります。イギリスがどうして移民問題でダメになったのかを書いています。『西洋の自死』という本ですが、ここに僕が一番提唱している「人間から渇望感がなくなったから、経済や世界がダメになった」ということが書いてあります。
その枯渇感の代表として僕が挙げている書物が、ミゲル・デ・ウナムーノというスペインの哲学者の『生の悲劇的感情』です。それと日本の『葉隠』、武士道精神です。
簡単に言ってしまうと、ヨーロッパで、キリスト教の信仰がなくなってしまったことをウナムーノは悩み続けた。「自分という人間は何なのか」、キリスト教的な意味で「魂とは何か」で苦しみ続けた哲学者です。つまり枯渇感です。
僕は小学生の頃から『葉隠』の武士道精神が大好きで、自分もそうやって生きようと思ってきているので、ウナムーノはキリスト教ですが、ウナムーノの生き方の中に僕は武士道を感じたわけです。それは何かというと、人間としての向上を願う枯渇感であり、悩みであり、苦悩であり、苦痛であり、叫びです。
そしてダグラス・マレーの『西洋の自死』では、ウナムーノのいう「生の悲劇的感情」を失ったことが、イギリスの自殺だといっています。だから移民を止めることもできない。何で止めることができないかというと、「もう人間としての精神活動を失ったから」といっているのです。
僕はもとから、フランスもドイツもみんなそうだといっています。移民を止められないのは、いいとか悪いではなく、「人間とは何か」、または一段落として「ドイツ人とは何か」「フランス人とは何か」「英国人とは何か」というアイデンティティーを失ったからです。そうでなければ、あんな移民問題などが起こるわけがないのですから。
このようなことが書いてあるということは、これはイギリス人にとっての、武士道精神なのです。武士道とは何かというと、「自分の命より大切なものが何か」ということです。自分の命より大切なものに、向かって生きる。できるかできないかは関係ない。向かって生きることなのです。これが人間だと。
できない場合は、もちろん悩みます。でも悩むのが人生なのです。本当に素晴らしいものになろうと思って、なれないのが人間です。僕も、もちろんなれない。なれないから、たぶん死ぬまで求めると思います。それが人間で、それが書いてあるのが『生の悲劇的感情』であり、日本の『葉隠』なのです。
●魂とは肉体を拒絶する何ものかである
日本の武士道や『葉隠』にある、男らしく生きようというあり方は、読んでいて、とてもではありませんが、及ぶところではありません。今、私は68歳ですが、昔、自分の信念のために命懸けで死に飛び込み、自分で腹切りして生きた武士たちの生きざまを見れば、もう男として情けない。でも、この情けない自分と対面しながら生きるのが、人生なのです。
「最後は違う面を見せるぞ」という決意は僕にもありますが、まだできません。しかし、「できない」...