●列強支配に激怒する中国。反日「五四運動」の爆発
さて、今回のシリーズでは、前回に続いて、対支(対華)21カ条要求を出して100年、そして第2次世界大戦が始まって100年という節目のときに何が起こるかという話をしています。
前回申し上げたように、対支21カ条要求については、さすがにこれはあまりに無理難題だということがあり、アメリカの介入もあって、何カ条かは調整されながら、それにしても批准はされるわけです。中国はもう抵抗する気力もない。一方では、その仲裁をするべき他国が第1次世界大戦の真っ最中で介入してこない。その間に日本と中国の間だけでそういうことが起こってしまうわけです。その後、これが国際的に正式に認められるのは、1919年のベルサイユ条約です。
第1次世界大戦は4年の長きにわたり、数千万人の死者を出しました。この当時史上最大だった戦争の終結にあたって、二度と戦争をしてはいけないということでパリ講和会議が開かれ、国際連盟の創設が決議されて、ベルサイユ条約が結ばれます。しかしそのときに、日本も戦勝国として対支21カ条要求が正式に認められてしまうわけです。日本が中国のあらゆるところに持つ権益というものが認められます。これはいわば、アヘン戦争以降にヨーロッパ列強が、南京条約、北京条約、天津条約と不平等条約を次々に結んでいったのと同じようなものです。それから70年以上遅れて、日本がその権益を抑え込んでしまいました。
それがベルサイユ条約が批准されたときに入ってしまったものですから、そこで猛烈な反日運動が起こります。1919年の講和会議開催中の5月4日に、中国全土で猛烈な反日デモが起こるのです。これが有名な、世に言う「五四運動」です。これはもう農民から学生から、北京をはじめ中国全土のあらゆるところで、学生が暴徒化し、民衆が暴徒化して起こりました。
これが決定的でした。中国が日本のその不平等条約を押し付けられたのは、国際条約、ヨーロッパで締結されるベルサイユ条約の結果である、と。われわれはそこまで日本だけでなくそれ以外の諸外国、ヨーロッパ列強からも、またしてもやられたのかということになってしまうわけです。それで中国全土の反対運動が起き、それがきっかけで、ついに中国にも中国共産党ができてくるわけです。これは全て五四運動というものの結果で、明らかに反日運動として起こってくるのです。
●「反日=反軍国主義の民衆運動」という文脈
今、そういった五四運動から、1921年に上海で中国共産党が誕生するまでの間の民衆運動の見直しが起こっています。
これも日本人にとっては不愉快なことですが、今年1月、ハルビンに、日本国の初代総理大臣である伊藤博文を暗殺した安重根の碑、記念館ができて大騒ぎになったことがありました。安重根はテロリストになるわけですから、その碑をハルビンの駅の構内に作るというのは、いくらなんでもあり得ない話です。しかし、中国はそれを踏み切ってしまった。
どうしてそんなことをしたのか。中国側の理屈からすれば、この安重根という人は、実は当時、中国の反日運動、反帝国主義、反軍国主義運動が非常に強くなっていた上海の辺りにいて、そういった民衆運動に感化されて、日本軍国主義者、帝国主義者の代表ともいうべき初代総理大臣を撃ったのだと。そういうストーリーに持ち込もうとしているのです。
つまりこれは、そういった事件や人物などの全てを使える道具として、「中国の屈辱の歴史を乗り越えていった勢力の一員だ」という考え方にしようとしているわけです。もちろん日本側から見れば、「何という歴史のねつ造なのか」という言い方もあるわけですが、しかし中国はこれを断固やろうとしています。
●30年ぶり、戦後2度目の逆風が日本を襲う
この3回に分けて話をしてきたことをまとめますと、安倍政権ができてからちょうど2年ほどが経つわけですが、この間、中国では時を同じくして習近平さんが国家主席になりました。歴史認識、歴史の記憶をめぐる問題では一歩も引かず、これまでの国家主席のような人が決して言うことのなかったような発言を積極的にし、宣伝部を使ってどんどん世界に向かって発信しています。つまり、ここにおいて全面的に対決姿勢になってしまったのです。それは、このシリーズで申し上げているように、中国がその歴史の記憶というものを中国民衆と共有しようとしているということです。
戦後の歴史を振り返ってみると、こういう動きは、戦後の日中関係の中で実は二度目になります。われわれは、過去にどういう経験をしているのでしょうか。
ご覧の皆さん方もご存知かと思いますが、中国全土には、例えば、南京の虐殺記念館、あるいは、先日習近平さんが演説した北京の中国人民抗日戦争...