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日中戦争はやがて世界の問題に拡大、そして敗戦・・・

20世紀前半の日中関係~この歴史から何を学ぶか(3)

島田晴雄
慶應義塾大学名誉教授/テンミニッツTV副座長
情報・テキスト
wikimedia Commons
本年2015年は戦後70年の節目の年。しかし、中国や韓国ではいまだに反日教育が行われ、日本においても特に現代史の教育の欠如は否めない。歴史認識という価値観以前に、事実理解のギャップに問題があると感じた島田晴雄氏が、このギャップを埋めるべく、20冊以上の文献に目を通してまとめ上げた20世紀前半の日中関係に関する大作講義。(2015年7月7日開催島田塾第126回勉強会島田晴雄会長講演「20世紀前半の日中関係:この歴史から何を学ぶか」より、全3話中第3話目)
時間:15:20
収録日:2015/07/07
追加日:2015/08/06
≪全文≫
Ⅵ(第5幕) 満州事変と2.26事件
1 政党政治の混迷と陸軍の政治的台頭
―この頃(昭和初期 1924~32年)、内閣の寿命が短い。短命と不安定(以下、北岡分析)

―有権者の増加によって伝統的地盤だけでは勝てない。政権を利用した政治資金調達や選挙干渉も。野党は政権獲得に奔走。そのため首相奏薦に決定的な力を持つ元老の西園寺に接近、反対党のスキャンダルを暴き、軍や枢密院など政党政治に敵対的な集団と提携したり、政党政治否定原理に訴えることも

―護憲三派内閣(第一次加藤高明内閣)は、公約だった普通選挙法が成立する(1925年3月)や否や政友会は倒閣に走り、高橋是清を引退させて田中義一を総裁に迎え入れ、(4月)、革新倶楽部と合体して議席数を増やし(5月)、税制改革をめぐる不一致で内閣を倒したが、加藤に大命が降下してもくろみ外れた

―第二次加藤内閣は、加藤の病没で半年。続いて、憲政会の若槻礼次郎が組閣(1926年1月)。これに政友会は執拗なスキャンダル攻撃。また憲政会の中国政策を無策と攻撃。枢密院の力を借りてこれを倒した(1927年4月)

―こうして成立した田中内閣は人気低迷。第16回総選挙で鈴木喜三郎内務大臣は選挙結果で政権が移動することは天皇大権に反すると政党政治否定論まで。田中内閣は中国政策の転換を訴えたが成功せず、山東出兵を行い、北伐軍と衝突して済南事件(1928年5月)。張作霖爆殺事件(1928年6月)の処理を誤って天皇の不信任を受けて辞職(1929年7月)

―田中内閣の後、民政党(憲政会と政友本党が1927年6月合体して成立)総裁の浜口雄幸が組閣。浜口内閣がロンドン海軍軍縮条約を締結した時、政友会は内閣が海軍軍令部の意見を不当に無視し、統帥権を干犯したと非難。浜口はテロで重傷負って退任。その後の第二次若槻内閣は満州事変を処理できずに閣内不一致で辞職

―これに代わった犬養毅政友会内閣は、民政党の不人気に乗じて第18回総選挙で大勝したが、1932年2月、海軍士官を中心とする5.15事件で倒れた

―このような過激な政争で、政党は自ら国民の不信を招き、政党政治に敵対的な政治集団を力づけた。政党政治の基礎を堀崩したのは政党自身。1930年代、経済が行き詰まり、国防の危機を訴え、満蒙権益の危機を訴えた軍の台頭に政党はとうてい対応し得ず

―事実として政権交代が続いたのは、首相の奏薦の任にあたった元老が比較的公平な判断をしたから。山県と違って強大な勢力を持たなかった西園寺は、何よりも政権の安定を期待。政党間の政権移動はそのひとつの方法だった?

○陸軍皇道派の台頭
―政党政治とW体制の打破を掲げる集団が陸軍中堅層に台頭
 陸士出身:永田鉄山、小畑敏四郎、板垣征四郎、石原莞爾ら
 定期的に会合。彼らが、荒木貞夫、真崎甚三郎、林銑十郎らを擁立して陸軍の改革と満蒙問題に解決に邁進しようと申し合わせ、1929年

 1925年8月20日、容共派の重鎮、孫文の有力後継者と目されていた膠仲鎧が暗殺。幹部による調査委員会。刺客は逮捕されており、糾明は容易だが、問題はその暗殺計画に胡漢民の従兄が関与。長年の同志、反共右派の代表者である胡に首謀者としての容疑がかけられたため、蒋介石は胡を拘束のうえ、ソ連への出国をすすめた。胡はソ連に去って失脚。蒋介石はついで、軍事部長兼広東省長の許崇智に事件の責任をとるよう要求、失脚

 主要幹部が死亡、失脚したので、蒋介石は権力集中。第二次東征で陳炯明の本拠地恵州陥落。広東の軍事的統一達成。1926年1月、第二回党大会、蒋介石は汪兆銘(容共派)に次ぐ2位となり中央執行委員会常務委員。2月には国民革命軍総監に就任。蒋介石は北伐を志向したが、共産党もソ連顧問団も時期尚早と反対。ソ連の援助は重要だが、蒋介石は次第にソ連や中国共産党の動きに不信感。とくに国共合作による中共の勢力拡大は看過しえなかった

 このような状況下で、1926年3月、中山艦事件。共産党員が艦長を務める国民革命軍の軍艦「中山」が、軍総監、蒋介石の許可なく広州から軍官学校のある黄埔へ航行。蒋介石は艦長を逮捕、広州市内に戒厳令。ソ連軍事顧問団公邸、共産党が指導する広州の省港ストライキ委員会を包囲。労働者糾察隊の武器を没収。蒋介石はこの事件を利用して共産党やソ連の軍事顧問団を牽制した。党内の支持基盤は弱く、共産党やソ連代表団に支えられて政権を維持してきて汪兆銘は、自分の権力基盤が揺らいだことに動揺し、3月21日、病気療養を理由にフランスに出国。事実上失脚。かくて蒋介石は国民党の権力を全面掌握。蒋介石はさらに最高権力者の地位を固めていく。4月16日、蒋介石は国民政府軍事委員会主席に選出。5月に開催された第二期中全会で、党中央組織部長。この会議で、党務整...
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