●油絵を完成させた巨人、ヤン・ファン・エイク
今回は、ヤン・ファン・エイクという画家を取り上げます。この名前もあまり日本では知られていませんが、美術史上では巨人として知られています。その理由は、ルネサンス美術において最初に登場する技術がたくさんある中、彼こそが油彩技法、つまり油絵を完成させた人物だからです。彼の作品にはそうした重要性があります。
では、早速見ていきましょう。舞台はいわゆる「北方」と一言でくくられてしまうのですが、当時はネーデルランドと呼ばれていた場所です。低地帯地方で、現在ではオランダとベルギーを合わせた地域です。ここはイタリアに次いで、非常に経済力を持っていた都市が並んでおり、ブリュージュを中心とした商業都市が並んでいるところに特徴があります。
●細部に現れる、驚くべき技巧
早速、ヤン・ファン・エイクの驚嘆すべき技巧をご紹介します。これが彼の『ファン・デル・パーレの聖母』という作品です。当時の中心地であるブリュージュにあります。これを見ていただくと、中央に聖母子がおり、そして左右に聖人がいます。
細かな説明は抜きにして、まずは技巧を見ていただきたいのですが、一番右端に甲冑を着けた聖人がいますが、この聖人の部分を少し見ていくと、変わった兜(かぶと)を着けているのが分かります。曲面が並んでいるような兜です。位置関係を確認すると、右側に聖人が立っていて、中央に聖母マリアがいるという状況です。
拡大してよく見てみてください。これが兜の表面です。お分かりでしょうか。この曲面の一つ一つに、中央の聖母マリアが映っているのです。これが全てそうです。そして、その背後にある窓からの射す光も、1体ずつ描かれています。わざわざ1体ずつ、描かれているのです。これを「鏡面反射」と呼ぶのですが、鏡面反射を描くのは非常に大変な作業です。にもかかわらず、わざわざこうした変わった形の兜になっているのは、彼がそれだけ技巧を見せたかったからです。難しければ難しいほど、画家として高い技能をアピールすることができます。そのためにわざわざ、この大変な鏡面を作り出したのです。
●ヤン・ファン・エイクは画家兼、優秀な外交官だった
ヤン・ファン・エイクには兄がおり、名前をフーベルトといいました。彼はその弟ですが、当初は兄弟で画家としてのキャリアをスタートしました。彼らは、当時の都であるブリュージュに呼ばれ、そこで宮廷画家となります。「侍従にして画家」という言い方をするのですが、その当時、ネーテルランド地域はブルゴーニュ公の支配下にありました。「フィリップ善良公」という言い方をするのですが、そこでは、その善良公のお付きの画家になりました。彼の面白い点は、画家としてももちろん素晴らしかったのですが、それ以上に外交官として非常に成功したということです。たまにそういう画家が登場します。その中で重要な人物としては、ルーベンス(ピーテル・パウル・ルーベンス)が挙げられるでしょう。ルーベンスは、史上最も成功した画家として有名ですが、彼も外交官として、王侯貴族のような暮らしをしていたことでよく知られていますね。このヤン・ファン・エイクもそれと同様です。
彼は『ヘントの祭壇画』という最大の代表作に取り掛かっていながら、何度も何度も秘密の旅行に呼ばれ、旅行に行っていました。つまり、善良公の命を受けて、何の目的かは分かりませんが、旅行に行っていたのです。
しかし、これは、後々彼がやったことを見ると、大体判断ができます。ブルゴーニュが治めていても、ネーデルランドはイングランドやスペイン、フランスといった周りの国に比べると、やはり国土は小さい。ということで、彼らはどこか力のある国と同盟を結び、何とか血路を見いだそうとします。そのために重要なのは縁談です。こうした事情で、政略結婚によって強国と同盟関係を結んでいったのです。
そこで、縁談をどこと結ぶのかということが非常に重要になってくるわけですが、その交渉のための全権大使に選ばれたのがヤン・ファン・エイクだったのです。そうした理由で、彼はスペインやライバルのポルトガルにも行きます。そして、両国を比べて、結局は善良公とポルトガルの王女が結婚することになります。そのぐらいの大きな政治的な活動も、彼は行っていたのです。