●レオナルド・ダ・ヴィンチは「最初の近代人」である
それでは、いわゆるルネサンス美術における3巨匠を取り上げていきましょう。
まず1人目が、レオナルド・ダ・ヴィンチです。ちょうど2019年が、彼の没後500年に相当します。500年前に亡くなったこの一人の人物を、私も含めた世界中の多くの人が勉強して、彼が残したノートを分析しています。彼については、その研究が始まって以来100年ほどたつのですが、それでもまだ解読し終わっていません。これは本当に驚くべきことなのですが、彼のことは知の巨人として、皆さんもよくご存じだと思います。
まず彼の生涯の前半を取り上げますが、彼の重要性は、彼が「最初の近代人」であるという、この1点にあります。彼はよく、「万能の天才」と呼ばれますが、天才という言葉は、実は彼にはふさわしくないかもしれません。というのも、天才からわれわれが学ぶことはあまりなく、「すごいな」で終わってしまうからです。けれども、彼は非常に苦労と努力を重ねて、あの域に到達した人物です。だからこそ、われわれは彼から多くを学ぶことができる、そういう良い教材として扱った方が良いと思います。
●ダ・ヴィンチ家とレオナルド出生の真実
彼は、ヴィンチ村という所で生まれます。ヴィンチ村は、イタリア語でダ・ヴィンチなので、これが彼の姓として代用されているのです。正確には姓ではないのですが、苗字の代わりをしていたのです。これは昔の日本と同じで、よほどの王侯貴族でなければ、苗字など普通の人には付いていませんでした。
これは彼が5歳の時の税の申告記録なのですが、ダ・ヴィンチ家の当時の当主であるアントニオというおじいさんが書いたものです。1行目と2行目にアントニオとその妻、ノンナルチアと書いてあります。年齢も85歳と64歳と書いてあります。21歳も差があるのですが、これは当主として当たり前の姿です。
これは、Tornabuoni家というフィレンツェの名家の娘が出産の際に命を落とした時の姿で、母子彫刻としてヴェロッキオという人が彫ったものです。ちなみにヴェロッキオは、レオナルドが弟子入りした先生に相当します。出産時に命を落とすというのが、当時としてはよく見られる光景でした。当時もそうですが、医学知識というのは2000年ほど前からあまり進歩がない状況でした。しかも、当時、医者は基本的に大学を出た男性がなるのですが、大学には基本的に女性は入れませんから、当然ながら男性しかいません。男性は、当時の性モラルが災いして女性の身体にタッチできませんでした。ということで、こうした悲劇が多く発生します。当時、女性の死因は、ペストに次いで出産が第2位であったと考えてください。それぐらい危険を伴うことだったのです。
こういうことが繰り返していきますので、例えば最初の妻が出産時に亡くなった後、薄情に思えるほどすぐに次の妻を迎えます。当時は何人も子どもを作ることが大事なので、そうするのですが、何人目かの出産時にその2人目の妻が亡くなると、また新たな妻を迎えるということを繰り返しました。その間に夫は年を取っていくのですが、妻は常に16歳から18歳ほどの年齢でした。こうして年齢差がどんどんと離れていったのです。
●私生児だったレオナルドは幼少期から大きなハンデを背負う
レオナルドの家は、こうした当時のルネサンス期における一般庶民の典型でした。お父さんはセル・ピエロという名前です。セルというのは公証人を指すのですが、今の司法書士のような仕事をしていました。そして、彼は妻を4人迎えたことになります。
実は彼のお母さんはそれとは別で、カテリーナという女性なのですが、少し身分差があり、おそらく小作農の娘だと思います。彼はセル・ピエロとカテリーナとの間に生まれますが、そのため、二人は結婚することなく別れます。つまり、彼は幼くして自分の母親から、引き離されたような状態になったのです。
そして、セル・ピエロは4人も妻を迎えるので、結局彼には合わせて5人も母親がいたということです。当然、最後の母親は自分よりも年下であるという状況です。彼はいわゆる非正嫡の婚外子の境遇に置かれました。先ほどの税の申告書には、家族のほとんどに200フィオリーニと書いてありますが、これが免税された額を指しています。彼は一番下にいます。彼のところに5歳と書いてあって、そこには200と書いてありません。つまり、この家族の中で彼だけ、人頭税が免除されていないのです...