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なぜ伊賀地域や甲賀地域に忍者が多いのか

「忍者」とは何か(3)伊賀・甲賀に忍びが多い理由

高尾善希
三重大学国際忍者研究センター 准教授
情報・テキスト
伊賀・甲賀地域は山城が多いという地理的要因から近隣の大名も攻めにくく、小さな武士集団が乱立していた。天正伊賀の乱で伊賀勢は織田信長に滅ぼされるが、逃れてきた者たちのなかで特殊技能を持つ忍者たちが下級武士団として召し抱えられていく。フィクションの世界ではライバル関係として描かれることの多い伊賀忍者と甲賀忍者だが、実際には同盟関係を結び、情報を融通し合っていた。(全5話中第3話)
※インタビュアー:川上達史(テンミニッツTV編集長)
時間:10:25
収録日:2019/08/27
追加日:2020/01/30
キーワード:
≪全文≫

●伊賀・甲賀に忍びが多い理由


高尾 忍術書というものがあります。忍術書とは、忍術を書いた本なのですが、全て江戸時代のものです。そのなかで割と早い時期のものが『万川集海(まんせんしゅうかい)』という忍術書で、17世紀の中頃のものです。

―― これは、17世紀中頃ですから、江戸幕府ができてから50年後ぐらいの時期ですね。

高尾 そうです。その頃に『万川集海』という忍術書ができました。そこに素朴な疑問として、伊賀・甲賀地域に忍びが多いのはなぜかということについて書いてあるんです。何と書いてあるかというと、まず伊賀・甲賀地域は大きな大名がいないので、いわゆる内戦状態になるんです。そこに住んでいる人たちというのは、小さな武士集団で、その小さな武士集団が戦い合って、その過程で奇襲に長けた、あるいは情報収集に長けた忍者、忍びが出てきたということが、『万川集海』に書かれています。


●大名家も手こずった伊賀・甲賀の武士集団乱立状態


 これは本当なのかということで調べてみると、伊賀・甲賀地域は、他の地域に比べて山城の数が格段に多いんです。

―― ということは、それだけそこを拠点にしている小さな武士集団が多かったということですね。

高尾 そうです。小さな武士集団が数多くいる、そういう土地柄だったのでしょう。それ自体なぜなのかという問題もあるんですが、おそらくその地域は山勝ちの盆地で、大きな勢力が入らなかったんだろうと思います。それは天正伊賀の乱で織田家が攻め込むまで続くことになるんですが、周りの大きな大名家も攻め込むにはとても面倒なところだったのでしょう。

―― 確かに、例えば忍術的な技能もあれば、これはなかなか攻め込むのが大変ですよね。

高尾 それもありますね。

―― 要するに独立独歩の領主がたくさんいて、しかも特殊技能を持っていると思うと、もし攻め込んでゲリラ戦になってしまったら、けっこう手を焼くということですね。

高尾 そうです。天正伊賀の乱でも織田勢は手こずるんです。それ以前に大きな大名家が山を越えてやってくるというのは、当時はトラックもバスもない時代ですから、なかなか大変なんですね。そういう地域ですので、小さな武士集団が乱立して常に内輪もめをするような状態になってしまったため、そういう忍びの術に長けた集団が出てきたんでしょう。そうしたことははっきりと『万川集海』に書いてありますし、山城の数が多いというのも考古学的な調査の末に分かってきています。


●天正伊賀の乱を契機に伊賀の忍びが西日本へ広まる


―― そういう過程で、ちょうど伊賀では忍びとしての専門集団が育っていき、それが傭兵的な形で全国で仕事をするようになっていく、と。戦国期を通してそういう形になったということですが、今お話に出た天正伊賀の乱では、織田家の軍勢が攻め込んでいくということになります。これに関して、経緯としてはどういうことになるんでしょうか。

高尾 信長の言い分によると、自分の息子の織田信雄が、伊勢国の人たちにそそのかされて、あの軍勢を催した(招集した)ということですね。それで下手に手を出してやられてしまったということです。つまり、遠いところに攻め込むよりも、近くの伊賀に攻め込んだほうが自分たちは楽だから、それで信雄をそそのかして、軍勢を動かしたんだけれども、あまり重要に考えていなかったので、下手に手を出してやられてしまったということです、それで、信雄もお父さんの信長からかなり叱られているようです。

―― なるほど。信雄は失敗して痛い目に遭ったので、今度は信長御大が出てくるということですね。

高尾 御大が出てきたので攻め滅ぼされるんですが、全部が全部滅ぼされたわけではないんです。戦った人たちイコール忍者というわけではありませんから、かなり生き残った人たちもおり、国から逃亡した伊賀者たちもいました。そういう人たちは西日本を中心に逃げていきます。ですから、徳島藩だとか岡山藩だとか、そういう西側の諸藩に下級武士団として仕えていきます。

 私はこの間、鳥取藩の調査をしに行ったんですが、鳥取藩にも忍びの集団が仕えていたんですね。由緒書などを見ますと、天正伊賀の乱で負けて、伊賀から鳥取まで逃げてきたという話が残っています。ですから、非信長勢力圏、すなわち西日本に伊賀という名前の付いた忍者が近世の下級武士団として多いのはそういう事情からだろうと思います。


●同盟関係にあった伊賀・甲賀とスカウト合戦の真相


―― 逆にいうと、少し変な言葉になってしまいますが、もうその時には一種のブランドとしての伊賀者というか、忍びの術としてすごいものを持っているという話があって、彼らが逃げて...
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