●伊賀・甲賀に忍びが多い理由
高尾 忍術書というものがあります。忍術書とは、忍術を書いた本なのですが、全て江戸時代のものです。そのなかで割と早い時期のものが『万川集海(まんせんしゅうかい)』という忍術書で、17世紀の中頃のものです。
―― これは、17世紀中頃ですから、江戸幕府ができてから50年後ぐらいの時期ですね。
高尾 そうです。その頃に『万川集海』という忍術書ができました。そこに素朴な疑問として、伊賀・甲賀地域に忍びが多いのはなぜかということについて書いてあるんです。何と書いてあるかというと、まず伊賀・甲賀地域は大きな大名がいないので、いわゆる内戦状態になるんです。そこに住んでいる人たちというのは、小さな武士集団で、その小さな武士集団が戦い合って、その過程で奇襲に長けた、あるいは情報収集に長けた忍者、忍びが出てきたということが、『万川集海』に書かれています。
●大名家も手こずった伊賀・甲賀の武士集団乱立状態
これは本当なのかということで調べてみると、伊賀・甲賀地域は、他の地域に比べて山城の数が格段に多いんです。
―― ということは、それだけそこを拠点にしている小さな武士集団が多かったということですね。
高尾 そうです。小さな武士集団が数多くいる、そういう土地柄だったのでしょう。それ自体なぜなのかという問題もあるんですが、おそらくその地域は山勝ちの盆地で、大きな勢力が入らなかったんだろうと思います。それは天正伊賀の乱で織田家が攻め込むまで続くことになるんですが、周りの大きな大名家も攻め込むにはとても面倒なところだったのでしょう。
―― 確かに、例えば忍術的な技能もあれば、これはなかなか攻め込むのが大変ですよね。
高尾 それもありますね。
―― 要するに独立独歩の領主がたくさんいて、しかも特殊技能を持っていると思うと、もし攻め込んでゲリラ戦になってしまったら、けっこう手を焼くということですね。
高尾 そうです。天正伊賀の乱でも織田勢は手こずるんです。それ以前に大きな大名家が山を越えてやってくるというのは、当時はトラックもバスもない時代ですから、なかなか大変なんですね。そういう地域ですので、小さな武士集団が乱立して常に内輪もめをするような状態になってしまったため、そういう忍びの術に長けた集団が出てきた...