●鎖国をする一方、日本は独自の豊かな文化を育んでいた
日本という国をもう1回見てみましょう。そうすると、江戸時代に鎖国をします。1600年代前半ぐらいから、徳川幕府が鎖国しました。これが非常に大きな影響を日本に与えました。良い、悪いを言っているのではありません。大きな影響を与えたということです。
鎖国前には、日本は間違いなく先進国の一角でした。それは、豊かさという意味においてや工業力など、いろいろな意味で世界の先進国の一角を占めていたようなのです。ところが、ここで鎖国をしました。
鎖国をして、その江戸時代250年の間に、イギリスで産業革命が発生したわけです。その間、日本は非常に精神的とでもいうか、松尾芭蕉であるとか、茶道、華道など、非常に洗練された文化を、いわばエンジョイしたのです。エンジョイできなかった、飢饉で死んだ人もいましたけれど。そういう豊かな文化を育んだ、ということは言えるわけです。会津もいろいろ、会津は日新館でしたっけ、そういうところで教育したりしてきたのです。
●開国にあたり、日本の植民地化を救ったのは第一に教育の力
ところが、欧米で先進国が生まれたわけで、それは産業革命が起きたからです。産業革命とは何かというと、「工業を大規模にやる」ということなのです。そうすると、明治維新のときに黒船がやってきて、産業革命をやって工業力を強めた国の軍艦、黒船は、日本の船よりもずっと大きかったのです。黒船は大砲を積んでいますが、その積んでいた大砲は、日本の大砲よりもはるかに大きかったのです。ですから、他の国と同じように、日本が植民地になる可能性は、ゼロではありませんでした。
けれども、植民地にならなかったのは、これは偶然ではありません。これはなぜかというと、日本はそのとき、決して途上国ではなかったからです。何をやっていたのかというと、教育をやっていたのです。教育というのは大事なのです。
●教育、情報、治安システム、ものづくり力が日本を先進国に押し上げた
では、その教育はどこでやっていたのか。寺子屋でやっていたのです。寺子屋の数が、今の小学校の数にひけをとらないもので、全国で1万5000ぐらいありました。今と同じぐらいの小学校、中学校に相当する寺子屋で、いわば、初等教育をやっていたのです。初等中等教育とでも言いましょうか。
では、高等教育はやっていなかったのかというと、やっていました。これは、藩校というところでやっていたのです。ですから、先ほど言った、会津であれば日新館、大阪であれば適塾、というような藩校が各地にあって、そこで高等教育をやっていたわけです。このように、教育をやっていたのです。
それから、情報システムはきちんと持っていました。欧米の情報システムと同じです。それは飛脚です。人が走ったり、馬を使ったりしたわけですけれども。日本中に飛脚のシステムというのが巡らされて、情報を伝えることができていたのです。それから、警察システム、治安のシステムだって持っていました。与力とか同心などというようなシステムです。また、裁判所も持っていました。
ものづくりもやっていました。ものづくりのどんなことをやっていたのかというと、例えば、九州の佐賀です。佐賀は、鍋島藩とも言って、長崎に近いから外国からやってきた船を見ていましたが、この中にイギリスの蒸気船があったのです。その蒸気船を見て、数年でそれをつくってしまったのです。
そのようなことができた国は、植民地になった国にはどこにもありませんでした。それは、結局、日本が鉄をつくる技術を持っていて、鉄を加工する技術も持っていたということなのです。ですから、「ものづくりもやっていた」ということです。
けれども、「大規模化する」という産業革命はやっていなかった。しかし、今言ったように、教育システム、治安システム、情報システム、ものづくり力など、必要なものは基本的にほとんど持っていたから、一気に先進国に追いつくことができたということですね。これは、僕の解釈も入っているけれども、多分間違いないと思います。
●高度成長期以降の課題も克服、日本は世界有数の長寿国へ
そうして日本は一気に高度成長をして追いつくことができた。その間、狭い国でがんがんやったから、公害ではひどい目に遭った。けれども、先ほど言ったように克服した。エネルギー危機にも陥ったけれども、それも克服した。そして、長寿社会。このことは言いませんでしたが、日本は1950年にはまだ世界の先進国の中では寿命は短い方だったのです。途上国と比べると長かったのですが。それが、1970年には世界一の長寿を実現している。
ですから、日本にはいろいろな課題がありました。国が占領されるかもしれない課...