●田中新兵衛はなぜ、いきなり切腹したのか
―― 前回の「武士道の神髄」の講義で非常に印象深かったのも、切腹とは子孫にその家をつなぐこと、というお話でした。切腹して責任を取ることによって、ある意味で永遠に家を生かす意味があった。
執行 それは今言った理論のプラスアルファの結果論です。根本にあるのは「武士とは自分を殺すために生きている」という思想です。だからそれを実践した人は「武士らしい」ということになる。「武士らしい」と認められることで家が繁栄し、たとえば殿様から家を加増されたりする。
江戸時代は切腹して死ぬことによって家が存続したり、いろいろないいことがあった。逆にいうと悲劇もあって、歴史上伝わっているのは、敵討ちをできなかった場合、家は断絶です。
一番厳しいのは、武士は戦う集団だから、たとえば事故で死ぬなど刀を抜かないまま、戦う姿勢なくして死んでしまえば、「武士道不心得」となり、お家断絶です。そういうことが、結果論としてあります。
―― 背中から斬られるとか。
執行 一番ダメです。
―― 要するに逃げて斬られたと。
執行 そうとられるのです。必ず正面を向いて、刀を抜いていないと。だから私の好きな『鬼平犯科帳』では、辻斬りで死んだ武士がいると、鬼平が寄っていって刀を抜いてあげます。ああいうのが本当の「武士の情け」です。刀を抜かずに死ぬと、武士は武士として認められない。それがお家断絶にもつながるのです。
また厳しいのが、松の廊下も有名ですが、刀を抜いてはいけないところで抜いたら切腹になる。これもまた、お家断絶です。
そこが戦争や暴力といったものと武士道との一番の違いです。武士というものは、死ぬための修練をする。それから、刀を使っていい場面と悪い場面についての一生涯にわたる仕分けを、絶対に迷わずにやる。命のやりとりをいつでもできる人間になる。それが、武士の修練なのです。
―― 時と場合を間違えない。
執行 絶対に間違えないということです。そのための修練で、それが『葉隠』に書かれている。だから間違えたら、それは「不覚」といって、その人の責任で死んでいただく。それも不名誉に。それは仕方がない、ということです。
―― つまり自分の行動にすべての責任を取る。
執行 責任ということでは、世界の頂点です。騎士道もそうです。武士道もそう。では『葉隠』や「騎士道」は、どういう文化なのか。一言で言うと「覚悟の文化」です。本人の中の覚悟。覚悟が何を生み出すかというと、全部が自己責任だということ。つまり、今の文化の反対です。
だから私が「もう人類は滅びる」と言っているのも、人類としての頂点、一番の文化を忘れたからです。自分の力で生き、自分の力で死ぬ。これが西洋でも東洋でも頂点を極めた人類の文化です。それが、武士道と騎士道です。それを一言で表せば「覚悟」と、覚悟から生まれる「すべてが自己責任」という考え方です。何をやっても、自分の責任なのです。
たとえば幕末に田中新兵衛という薩摩の剣客がいました。映画のシーンでもあったと思いますが、寝ているか酔っぱらうかしているときに刀を盗まれ、その刀が姉小路公知という公家の暗殺現場に落ちていた。
要は、はめられたわけで、田中は奉行所に呼び出され、犯人と疑われます。「お前の差料が、現場に落ちていた」ということです。このとき田中新兵衛はその場で刀を取り、自分の腹をかっさばいて死ぬのです。これが武士道の最高形態で、疑われただけで、もうダメなのです。何が起ころうと自分の責任。
―― しかもその場に自分の刀が……。
執行 あったというのが不覚です。誰が何と言おうと、武士なのに何かの拍子で、寝てたのか、酔っぱらっていたのか、刀を盗まれたら、それはもうその人がダメなのです。これでもうすべてが終わるのが武士道です。
でも田中新兵衛は、その場で切腹した。切腹したから、田中新兵衛は不覚ではあるけれど、この不覚は全部許される。
―― その見事な最期で。
執行 そうです、武士道的に。これも『葉隠』の思想です。現代社会はどちらかというと反対で、言い訳さえうまければ何でもいい。私のような『葉隠』を小学生の頃から神の如く信じてきた人間から言えば、現代社会は、もう人間の社会ではありません。人間以外の何者かです。それが何かはわかりませんが、人類は終わると思っています。
武士道や騎士道を築き上げる文化を与えられたのがホモサピエンスで、そこに生きなければ人類ではない。
―― その二つの一番大きな共通点が「自己責任」。もう最大の自己責任ですね。
執行 最大の自己責任を自分が持つからこそ、相手もまた自己責任で生きているというのが、武士同士の情けです。それが西洋でも騎士道精神として、歴史に出てくるのです...