●すべて自己責任の『自助論』から、「誰かのせい」の社会主義的時代へ
―― ここは面白いところですね。たとえば明治のはじめ頃は、『西国立志編』、いわゆる"Self-Help”(『自助論』)がベストセラーになりました。
執行 サミュエル・スマイルズですね。
―― 福沢諭吉の『学問のすゝめ』もベストセラーになりました。ある意味、「全部自分でやっていくんだ」という気概が明治の初期の頃は……。
執行 日本もそうだし、西洋もそうです。
―― それがだんだん、たとえば共産主義や社会主義になると、「いや、あなたがダメなのは社会のせいです」と。
執行 「国のせいだ」とかね。
―― 「こういう制度だから、あなたは常に損をする。だからダメなんです」という思想に変わっていきました。
執行 だから今は、どんどん変わっています。「今のいじめやパワハラもそうだ」ということです。今の人は認めないでしょうが、そういう文化から出てきたのです。
人生は全部、自己責任なのです。「なぜこんなことが、わからないのか」ということです。そして自己責任の中で最も自分に厳しく、一番生命燃焼ができる文化が、武士道と騎士道だったのです。その下にもずっとありますが、みんな自己責任で、自己責任以外はありません。
―― 先程、田中新兵衛の話がありましたが……。
執行 あれは極端ですが(笑)。
―― いわば自分の落ち度で、腹を切るところまでやる。いじめもそうで、「それって本当に私のせいですか?」という思いはもちろんあるとは思いますが、いじめられた自分自身に不覚なところはなかったかを考えていかないといけないということですね。
執行 その不覚を考えるのが、文化です。これが一番厳しいのが武士道で、武士道以外でも、少し前まで人間の文化は全部、自分の落ち度や不覚を考えて見つけ出すのが勉強であり、鍛錬、修練でした。その落ち度を見つけさせるのが、禅などでも、先生の役目だったのです。
―― その人自身の落ち度。
執行 親の役目もそれで、躾(しつけ)とはそういうものでした。そこに上手い下手はありますが、実際はそうだったのです。
―― たとえばいじめられて帰ってきたとき、「そんなことされて、おまえに悪いところはなかったのか」とか。
執行 「じゃあ、おまえはどうしたんだ」とか「なんで、そんなことになったのか」とか、そういう話です。
―― 確かにその発想法はまったく正反対ですね、「誰かのせい」とは。
執行 今はもう全部反対です。だから西洋も日本も社会が非常に乱れ、人類が本当に終わりに近いところまで来ています。日本だけでなく、西洋も全部同じです。『自助論』ではありませんが、今や「自分の力で」と言っただけで問題になる社会です。
―― そうですね。
執行 しかし人間の生命は、本当に自己だけの責任です。ほかのもののせいにしようと思っても、無理があります。つまり人類の話とは、すべて生命論なんです。自分の生命の話だから、本当はもう親も子もない。親のせいでもないし、子のせいでもない。全部自分。その最も厳しいのが武士道の『葉隠』だというだけです。だから『葉隠』を研究していくと、人生や社会のことは全部わかるようになります。
●「自分の生命や運命は、最も尊い」と理解して、次にどうするか
―― そういうところでいうと、例としてふさわしいかどうかわかりませんが、昔は貧乏人だからといじめられるケース、あるいは吃音で、ちょっとどもる癖があるといじめられる場合が……。
執行 全部いじめられますね。
―― それを自分の運命として受け入れて、どう乗り越えていくか。
執行 そうです、そういうことです。貧乏人がいいわけがありません。そういう家に生まれたのは、自分に(運命として)何かあるのです。その家にも欠点があり、それが嫌なら、それをどう巻き返していくか。そういう話が人生論です。人生論ということがわかっていないのです。
―― 主導権を取り戻すということですね、自分の手に。
執行 「すべての主導権」ですね。「自分の生命や自分の運命は、最も尊いものなのだ」ということが、私が武士道をずっと実践する中で1つだけ悟った、最大のものです。自分の生命と自分の運命以上に尊いものは、この世にありません。
でもその尊いものは「大切だ」という意味ではない。「すべてが自己責任」ということです。なにもかもです。すべてが自己責任であるからこそ、命は尊い。
そして尊い命にとって、本当にやりがいがあるのが、愛の実行。これが宗教や武士道や騎士道が言っている、最終的なゴールです。愛の実行とは、「一番尊い命を、何に捧げるか」という話です。
だからまず、自分の尊さを理解しなければいけない。自分の尊さを理解して、この尊いものをどうするか。これが次の人生論...