●「あんたが、そういう人なんだろうよ」と自分を客観的に見られるか
執行 (相手を選ぶことが大事なのは)友達だけではありません。たとえばいいもの、いい絵に触れる、いい芸術に触れる、いい書物に触れる、いい人と付き合う。これらは人生の基本の中の基本の中の基本の中の基本です。それを差別だというのだから、人類はどうかしてしまったのです。
―― やはり自分にとって大事なもの、自分を高めてくれるものが大切。ただそこが難しいところで、運命を受け入れることと相手を選ぶこと、どこまでが運命で……。
執行 「運命」と「相手を選ぶこと」は違います。相手を選ぶのは日常茶飯事の出来事で、自分の知能で選べばいい。運命とは、どんどん来る宇宙的時間であり、宇宙の作用というか、また別の問題です。その人を選んだ結果、不幸になったとしたら、それは運命です。だから、それは諦める。
―― 自分が1回選んでしまった場合は……。
執行 ただし選ぶときは、まずは知能を使って、いい人を選ばなければダメです。友達でも。選んだけれども、付き合っているうちに、2人で遊びに行って事故に遭ったり、不幸なことが起こったとしたら、それは運命という見方です。
―― あるいは、自分が選んだ相手が、どうも1回尽くしてあげたら、貪るようになったとしたら……。
執行 すぐに切らなければいけない。
―― それは逆に、自分の責任で、付き合ってしまった自分が悪いということですね。
執行 付き合った場合は自分が悪いし、付き合いを続けたなら、必ず自分の中に、付き合いを延ばしただけの卑しさがあります。わからない場合、私の身近な人なら、その卑しさの部分を教えてあげます。要は、必ずあります。
―― 自分自身の卑しさがあったからこそ、つけ込まれる隙を作ってしまったということでしょうか。
執行 それもあります。たとえば私が武士道の話をすると、「いや、執行さんの言うことはよくわかるけど、そんなことを言ったら家族がついてこない」と言う人がいます。会社でも「上司が……」とか。しかし、それはその人だから、そう言われるのです。
私は、そのようなことを言われたことがありません。もちろん、言ったら終わりになってしまいますけれども。私はどんなに愛する人でも、どんなに親しい人でも、私の生き方がダメなら、運命上は全然ダメです。付き合うこともできないし、すべて関係もダメになる。ただ、私自身は、そういう経験はありません。あるとしたら、一番派手なものでは、死ぬまで父に勘当されたことぐらいです。これが最大です。
父とは立場が違い、そういう関係もありました。しかし、父には勘当はされましたが、父の生き方があり、私には私の生き方がある。私自身は親孝行な人間であるつもりで、私は真の親孝行とは、自分の運命を生き切ることだと思っています。父にはわかってもらえなかっただけです。父も違う信念を持っていた。父のほうが、地位が目上なので、私が勘当されることになりましたが。死ぬまでそうでしたが、これは仕方ないことです。
父以外では、(そのような関係は)、まずありません。言われたこともない。(自分の生き方を否定されるようなことを)言われるというのは、言われる段階でもう不覚なのかもしれません。
―― なるほど。自分が最善を尽くしてきたと思っていることに、相手から完全拒絶されたとしたら。
執行 昔の人なら、「あんたが、そういう人なんだろうよ」ということです。
―― 「あんたが、そういう人なんだよ」は大事なところですね。そういうふうに自分を客観的に見られるかどうか。
執行 そういうことです。だから、もし武士道的な人生を貫徹したいなら、たとえば結婚している場合、女房に「そういうの、やめなさいよ」なんて言われないような生き方を普段からしていなければダメです。
―― 油断せずに。
執行 私は子供からも言われたことがありません。まあ、(子供は)いい意味で諦めているのかもしれません。先程も言ったように子供だろうが孫だろうが、「私の生き方」と「子供や孫を愛したり、かわいいと思う」のは、まったく別問題です。
●「自分は貪っていないか」と思う人は、貪っていない
―― では逆に、自分自身が誰かを貪っていることはないのか。これもけっこう難しいところです。
執行 当然そうです。
―― 結婚生活もそうですし、誰かに甘えるというのも反面、貪りの一種かもしれません。
執行 ただ日本の概念でいえば、何かお返しをしていれば、貪りではありません。貪りというのは、恩を一方的に返さない関係てす。何か返していれば、別に貪りではない。
―― そこが難しいというか、大事なところですね。
執行 難しくありません。決まっていることですから。
―― 恩を与えられたら、恩を返す。
執行 ...