●物は取りようだからこそ、「本当にそうか」を問う
執行 ただ得を取った人たちは吉田茂を中心として、まさか、そんなもの(日本の平和憲法)が日本を長年支配するとは思わないでしょう。その人たちは、アメリカの占領軍を利用して、日本国がちょっとでも得するようにしたいと思っただけなのです。ところがそれが、これだけ根が深いことになってしまったということは、吉田茂もわからなかった。要は日本国民の罪です。
―― それは卑しい道を選択してしまった宿命なのですか。「卑しい」を1回取ってしまった。
執行 卑しさと直面させない文化が、日本を支配したからです。そっちが勝ってしまった。日本人も、卑しさと直面させられるほうに持っていかれたら、自分たちで立ち上がるに決まっています。「卑しい」なんて、誰だって嫌ですから。でも「卑しくないんだよ」と言ってしまった。
―― 「それは正しいんです」と。
執行 今のマイホーム亭主と一緒です。昔だったら「女房の尻に敷かれている」と言いましたが、今亭主で「女房の尻に敷かれている」と言う人は一人もいません。たとえば、女房がいばっていたとして、これを「いばらせてあげている」と考える。こういう発想と近いものです。それを恥ではなくしているのです。
―― 魯迅 の『阿Q正伝』では、阿Qがやられたことに対して、全部「俺は勝っている」と言い続けます。日本人も同じようになってしまった。
執行 魯迅で言えば、『狂人日記』もありますが、ああいう世界です。変な話ですが、私が30歳ぐらいのとき、知り合いで女房にいつも殴られているやつがいました。「何だよ、おまえ。女房なんかに殴られて。それでも男か」と言うと、「女のことで腹を立てるなんて、執行さんは心が狭い、狭い」と言われたのです。
「俺は男だから、女房なんてあんな女には殴らせてやっているんだ。男はそういう度量を持たなきゃいけない」と。同じようなことを言っていたのが日本人なのです。要は物は取りよう。そう取れば全部そうなる。だから「卑しさ」というのは、本人が直面しようと思わなければ自覚できません。
―― 今の価値観でいえば、「日本は平和憲法だからすごいんだ。われわれはそこまでしても平和を貫くんだ」という美しい価値観になっていますね。
執行 これが「本当」なら素晴らしい。何でもそうです。先程の愛と一緒です。「本当なら」。本当に平...