●「争いがいけない」「嫌われたくない」でダメになった現代社会
―― 先生は若い頃にいろいろ、いわゆる文学青年同士の付き合いがありました。
執行 たくさんありました。
―― そういう話の中で魂と魂をぶつけ合うような議論というか、討論会みたいなものもあったと思います。それはもう全力で、それぞれがぶつけ合うということでしょうか?
執行 これはもう全力で、喧嘩してでも意見をぶつけ合うしかない。それ以外は文学論ではありません。現代社会は「喧嘩がいけない」とか「争いがいけない」となってしまったので、文学論などもしづらくなっています。でも私の学生時代まではありました。
―― 飲み屋とか、特定の地域(よく名前が挙がったりしますが)にしょっちゅう作家さんが集まって喧嘩しているといった話もありました。
執行 ありました。私も大学生まではよく、好きな作家の家に遊びに行って、みんなで文学論をやりました。それで一時期、大喧嘩になったとか、いろいろあります。
―― それも含めて、体当たりということですね。自分の信条をそのまま吐露して。
執行 これはもう、やって失敗して、覚えるしかない。
―― その繰り返しこそが、一つの結果を作っていく。
執行 もちろんそうです。
―― 自分自身を作っていくということですね。
執行 武士道も全部そうです。山本常朝も「自分が失敗していくしかない」といったことを言っています。人の失敗から学ぶことはできません。人とは運命が違うから。
―― だからこそ体当たりを繰り返して、どんどん失敗して覚えていく。
執行 今は「嫌われたくない」と思う人が特に多いようですが、人に嫌われることは非常に重要なことです。どういう人にどう嫌われたかで、また自分がわかるわけです。だからあえて嫌われるように人生を送ってみなければダメです。私はそう思います。
嫌われたって、何てことありません。「得しよう」と思っていなければ。だいたい、「好かれよう」というのは卑しいじゃないですか。なぜ、現代人はそう思わないのでしょう。
●かつては「売れた本」は「程度が低い」とバカにされた
―― 不思議な歌がありまして、小学校1年生になったときに歌う歌で、「友達100人できるかな」というものがあります。ああいう発想はよくないということですね。友達の数ではない。最近は、とくにツイッターとかフェイスブックとか、SNS等でもフォロワー数が……。
執行 あれが、最もくだらない。あれが物質主義の行き着いた虚無思想の代表です。友達や友情、愛といった魂の問題は、人類発生以来、「質」に決まってます。そんなものを数で考えるのは、魂が物質化してきたということです。だから私は、人類は滅びるのではないかというのです。
―― そこに質がない。数だけを誇るということには。
執行 「いいね」みたいなものは、とくにそうです。友達も友情の深さより、数をいばっている人がいますね。友達が多いとかで。
―― 「フォロワーが多くていいね」「私のは全然伸びなくて」みたいなことを言う人も、おそらくいるといます。
執行 今はそういう風潮です。ものすごく、くだらない考え方です。そんなことを悩んでいる人間自体が、私から言わせれば知能を疑います。悩むことそのものが。
―― ベートーヴェンの第九の歌詞に「本当に惹かれ合う友人を得た者が(ともに喜びの声を上げよう)」といったメッセージがあります。人間たるものはそこを追求していかなければいけない。
執行 愛と一緒です。愛も友情もすべて一緒。信頼も。そうした人類にとって一番重要だったものが、今、物質文明、消費文明、グローバリズムによって、どんどん壊されているわけです。
―― 「数」になってしまった。
執行 すべてのものが「数」になる。今だと本だって売上げでしょう。
―― まあ、そうですね。
執行 昔は「何冊売れたか」なんて問題にした書物はありません。とくに19世紀までは。議論の対象は内容に決まっています。20世紀の中頃から売れた数が本の価値みたいになってきた。
―― ベストセラーのランキングみたいなかたちで。
執行 そうなってきてしまった。最初にベストセラーが出た頃は、「ベストセラー」という言葉がどのくらいくだらないかをみんな言っていたのに、すっかりなくなりました。私が小さい頃、60年ぐらい前まではありましたが、私が10歳になる頃、高度成長ぐらいからなくなりました。
―― 確かに昔はちょっと分かれていました。「これは大衆が読む売れる本」とか。
執行 売れた本なんか、かえってバカにされる。
―― そういう傾向がありましたね。
執行 学問をやっている人はみんな、人気がある本やたくさん売れた本は「ああ、そうだろうな。あいつの本は程度が低いから」と言っていました。でも...