●「パワハラされた」の裏にある「評価されたい卑しい心」
―― では次に、実際どうすべきかという話をお聞きします。先ほど自分の「運命にぶつかる」という話がありました。その一方で「すべてのことが自己責任」という話もありました。
執行 何事も全部(自己責任)です。
―― そうなると、現代社会で多くの人が持つ悩みの1つに、人間関係があります。たとえば最近よくあるのがパワハラです。
執行 あんなのは最悪です。
―― その場にいる人の悩みとして考えたとき、たまたま、ある会社に入ったとします。そこで活躍しようと思っていたのに、非常にパワハラ的な会社で、ガンガンやられた。「おまえ、あそこに行って売ってこい!」などと言われている。言われた人からすると、それに従う自分が「本当の自分」なのだろうか。何か「やらされている」ような気もする。「その行動にも、自分は責任を取らなければならないのか」ということにもなってくるように思います。
執行 その考えそのものが「逃げの考え」で、今の考え方です。その会社に入ったのも自分だし、そんなことを思う自分そのものが、もうダメなわけです。たとえ誰かの命令であれ何であれ、どんなひどい親のもとに生まれようが、与えられた運命全部が、その人の運命です。そして、その運命に立ち向かうのが人生です。
パワハラなどというのは、もう最低の考え方です。これは誰が考えてもわかる問題ですが、もっとわからない問題でも、深いところを言えば、みんなそうです。要は「自分ができない」だけの話です。
―― そういうときは、どうすればいいでしょう。
執行 私が今、しゃべっていることを理解する方向に行く以外ありません。どこまで逃げても、逃げられることはないですから。
―― たとえば、その会社を辞めるということですか?
執行 辞めてもダメです。どこに行こうが、人から何か言われて、「嫌だ」と思うこと自体がダメです。その根源にあるのは、山本常朝の『葉隠』にも書かれていることですが、要するに「自分の損得」です。
―― なるほど。
執行 武士道のように、生命の本質や愛の本質を考えればわかることです。たとえば、「人間とは何か」「一人ひとりの人間が生まれ、自分の生命を全うするとはどういうことか」などということに直面すれば全部わかるのに、そうなっていない。
私が知っている範囲で、人間...