●東京の桜の名所は吉宗がつくった
山内 本題に戻ると、「下から目線」つまり下の人間たちの間に、(全て実像であったかは疑わしいけれども)一種の吉宗伝説、吉宗神話、あるいは吉宗ファンをつくったということです。吉宗は政治家ですから無駄なことはしないけれど、ただそれは政治的な方角だけではなく、為政者として庶民の日々の生活に潤いを持たせることが政治を安定させる大きな基礎的な条件になる、ということを知っていたのです。
それは、どうしてか。例えば、現在でいう東京都北区の飛鳥山、小金井、地名はなくなってしまったけれど北一輝の豪邸があったことで知られている中野桃園町は、桜の名所です。それから隅田川に面しているところに木母寺(もくぼじ)がありますが、そもそも隅田川に沿ってある桜の木は誰が植えたのか。また南でいうと、御殿山があります。もともと御殿山は桜の名所でした。これら桜の名所をつくったのは、基本的に吉宗なのです。
―― それはすごいことですね。
山内 なぜ、こういうものをつくったのか。庶民たちが、家族あるいは友人や仲間たちと一緒に、休みの日などに憩いや家族の団欒で出かけていき、みんなで花見をしたり、あるいは梅を見たり、桃を見たり、柳を見たりする。特に春の季節は桜を見る。これらは、人々の心を和ませる。そして、家族のつながりを豊かにし、絆を強く固くしていく。そういった場所になるのです。
そこに茶店などの商いが出て、花を見ながら、酒盛りや食事をする。屋台が出て、おでんを食べる。当時は、綿あめがなく、水あめがありました。
―― 水あめだったのですね。
山内 水あめに類するものがあり、吉宗自身も水あめは好きでした。晩年、老年になっても、薬と同じような感覚で水あめを食し、おいしい水あめがきたときは顔をほころばせて非常に喜んだそうです。
そういうものを庶民たちもまた、屋台や茶屋、茶店などで楽しむ。そのような空間を、北区の飛鳥山、御殿山、それから中野、小金井、隅田川といったところにつくって、整備していったのです。
―― 庶民を楽しませることが大事だという。
山内 そういった感覚ですね。
●庶民が「幸福感」を感じられる場所に
―― (吉宗は庶民を楽しませるのが)うれしかったのですね。
山内 うれしかったと思います。しかし、吉宗は何も計算してなかったわけではありません。ここが政治家です。それらは全て吉宗にゆかりがある場所です。もちろん彼が細かいことを意識したかどうかは別で、大岡越前守や町奉行といったいろいろなところの力もあるでしょう。
例えば、吉宗が鷹狩りにいくとき、江戸城から馬で、隅田川まで行列で出ていく。そして、隅田川から船で出るときの乗り換え場所。あるいは船で上流まで上がって、船から降りた場所。これらが全て「上様おなりの地」ということになるわけです。
次に、木母寺あるいは中野のどこかで休んだりする。食事を伴って休む場所、食事を伴わないご小継・ご中継といった休憩場所、そこで腰掛けて座った石や席――それらが「吉宗のありがたいおなりであった」という話になります。
―― それがよく分かっている人なのですね。
山内 こういうことと結びつくのです。吉宗はそこで、「この梅を育てよ」「ここに桃を植えよ」「ここに桜をもっと植えよ」などと言う。それで隅田川堰堤に桜が咲くということになったのです。特に、木母寺や寺島村といったところを中心に、上流あるいは下流のほうも桜が広がった。
小金井も同じで、奥のほうの泉にある山――富士山だと思いますが――が映った。そこに桜が散る風情が見事だったといわれています。
御殿山についていえば、今は山らしいものは残っていませんが、それは山を全て切り崩して、その土で台場を造ったからです。
―― あの土で台場を造ったのですね。
山内 江戸湾につくりました。ペリー来航の時ですが、当時ほとんど山らしいものはなかった。けれども、御殿山は少し高くなっていて、そこから白金高輪の方を臨めたといいます。白金高輪は農地・耕地が多いので、台場から田園風景が見える。
そこから左へ目を転じてみれば、品川の海が見えます。その海と桜の花が散っていく様子が見事な雰囲気で融合していました。見れば上総、安房の方向がくっきりと浮かび上がってくる。
―― 素晴らしい場所だったのですね。
山内 そういう場所で、庶民たちは家族で休息を取る。それは、今でいうわれわれの幸福感というものでしょう。
―― 吉宗は、それが分かっていたのですね。