●平和な世の中に増えた浪人をどう取り締まるか
── 大衆化や民衆化の時代がやって来ると、一方で退廃化というか、だんだん(秩序が)乱れてきたり、政治に関しても浮き足立つことが増えると思います。そのままおしまいになっていく国家は歴史上いくらでもあるわけですが、江戸やローマは比較的うまく立て直しを図り、続行してきたイメージがあります。日本の、特に江戸幕府の場合はどうだったのか、中村先生にうかがいたいのですが。
中村 江戸初期、徳川秀忠と徳川家光の二代にわたって大名家を改易しすぎたために、浪人がかなりの数、発生してしまいました。浪人になると飯が食えないので、東海道筋では箱根の関所、日光街道では関所のない今市と日光の間あたりに彼らが盤踞して、盗人(盗賊)になるわけです。
そういうことが非常に社会不安を与えるので、保科正之や知恵伊豆(松平信綱)が老中職についていた頃は、浪人をこれ以上増やさない方針にしました。しかし、すでに世に出た浪人たちをどうするかも問題になりました。
まずは幕府がいろいろな大名や御家人に推薦して、「あの浪人はなかなかいいから採用しなさい」と雇用促進を行うのです。それで、あまり採用希望者が出てこないような、少し言葉は悪いけれど「タマの悪い」浪人には、今でいう住民票みたいなものを発行します。「何丁目何某方」の地面に住んでいる「何の誰兵衛」と住居を特定しておくと、由井正雪の乱みたいな事件があったときに、そこに参加したのが誰かがすぐ分かります。
そういった安全装置を、保科正之の代あたりからつくり始めるんですが、中期あたりまではそれで回せたものの、幕末になるとお手上げです。何しろ思想犯が脱藩しだしたので、これは残念ながら抑えようがなく、混乱した状態になったわけです。
●「市民」の成立と民法の関係
中村 ローマ史が日本史とまったく違うのは、市民たちが最初から重装歩兵として戦場に行き、それによって自らの発言権を高めたようなところですね。それが傭兵の時代になってくると、上の命令を聞かない危険な者や逆に親分子分の関係で動いてしまうような者も出てくる。どちらも危険です。日本の場合、いわゆる市民層が育たなかったのです。そこが、江戸史では少し残念なところです。市民という意識が出るのは明治以降の話になってしまいますからね。
── たしかに市民という感覚で...